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河竹賞の渡辺保さんと奨励賞の笹山敬輔さんの受賞スピーチは学士会館でお聞きした。日本演劇学会が河竹黙阿弥にちなんで河竹賞を授与している。この間の優れた東西の演劇研究書がずらりと並んでいる。お能、歌舞伎、浄瑠璃(文楽)、近代日本演劇、現代日本演劇、西欧演劇、アジア演劇などなど多様なジャンルの書が並んでいる。シェイクスピア関係書も何冊かあったようなー。沖縄演劇の研究書がそれに連なる日を目標にしたいね。
ところで笹山さんの著書はいわゆる博論をまとめた書物だから、引用や、注釈、参考文献が盛りだくさんである。博論の規範を順守している論稿だと言えるのだろう。博論の規範は規範で守られないといけない。渡辺保さんのご本はまさにご自分の論理の展開で、批評と研究書の中間的な路線で、読ませる。膨大な注釈に煩わされなくてすむという事だけど、一般に研究書(学術書)は引用や注釈が多い。それは東西南北あまり変わらないと言えよう。
例えば仲里功さんの批評書などもほとんど注釈もなければ参考文献もない。これは一般に学術書としては筋が通らないということになる。すべての知識なり情報が著者のものではなく多くの先行研究などの言説、努力の成果の上にさらに積み重ねられた認識の提示になるからだ。新しい知見の開示でも、その対象にはすでに取り組んだ方々の苦労されたことばの論理化がなされている時、その研究の成果に敬意を示し、その論理のエキスと問題点などを指摘し、さらに新しいテーゼなり認識を押し広げるのである。そうしたことばの繰り出し方がされていない時、それは単なる個人の考え≪妄想≫ということになり、実証性のない論稿ということになる。学術書と批評書の違いだろうか?ただこの渡辺さんの書と笹山さんの書を比べてみて思ったことだけど、しかし論として面白さはそれぞれだね。渡辺さんは膨大な参考文献を並べておられる。ただ批評書が学術的文献より面白いのは小林秀雄の批評などだ。
あるいは『成熟と喪失』-”母”の崩壊ーを書いた江藤淳などの批評書はあまり注釈がついていないが、批評そのものが独創的なのである。まだ20代の頃ロンドンのある書店で買い求めた文庫を今でも大事にもっている。文学に顕れた日本近代の問題を父と子の関係ではなく、母と子の関係、とりわけ母の崩壊の視点から何冊かの代表的小説を分析した批評書だが、今一度読みたくなった。渡辺保さんは、江藤淳のように演劇を通した日本の近代の問題を明治天皇の即位から崩御までのシンボリズムで読み解いた労作ということになるのかもしれない。全部読んでまた対象化したい。
『演技術の日本近代』もまた興味深い。演技論や身体論が最近話題にのぼっている沖縄である。演じるのは「型」か「心」か、との副題も惹かれる。今から読んでいくのだが、身体性、様式化がどのように追究されたのか、沖縄の組踊も沖縄芝居も今そのディテールが問われているね。
植民地的身体に関しては、以前「土方さんの舞踊研究」でシアターアーツ賞を受賞された研究者稲田奈緒美さん(確か早稲田大で博論をまとめていた)とミュンヘンからバスでモーツアルトの生家のに向かうミニツアーの時いろいろ話しあったことがある。例えば戒厳令のあった台湾で、人々の身体は委縮していたのよね、のような対話の中で、戦前の沖縄の身体性が迫ってきた。内なる劣等感と同化していく身体の変化・変容が気になってきた。「くしゃみ」まで日本人にまねよ、と太田朝敷は書いたのだった。それを知念正真は『人類館』まで昇華させて優れた戯曲に仕上げたのである。そして、沖縄の歴史や文化の事例はアジア的な事例やマイノリティとマジョリティの交差する社会の中ではどこでも共通のものが見られるのではないだろうか?(ネットで調べたら稲田さんのご本は『土方巽・絶後の身体』だね。身体という制度化に向かって繰り返し叛乱を起こした土方を論じているのらしい。道理で彼女は盛んに身体と制度ということばを使っていたのだと納得。制度化される身体ということは、日常の中の身体の制度化があるということ、のようなことを確か話していたのだったと今思い出す。)
今から沖縄芸能史研究会の大会に参加する予定。久しぶりに古巣に戻る感じがする。現在の研究テーマを掘り下げる意味でも芸能史研究会の会員のことばに耳を澄ましたいと思う。←盛況だった。