(ヤンバル紫陽花)
なかなかいいセンスでツイターの反応もいいと思ったのだが、ほかの作品を観ても読んでもいないので、何とも言えない、しかし以下のサイトの受賞作、加藤拓也「ドードーが落下する」と金山寿甲「パチンコ(上)」の評価をした選考委員のコメントが納得させられたような気がしている。以下のサイトで読める。
選考委員のコメント
『 ドードーが落下する 』 落ちてゆく売れない芸人を扱いながら、その明るさが怖い。その不気味な明るさは人の行為の不気味を生んで秀逸である(岩松了)
『 パチンコ(上)』 金山氏の「帰化したら在日ネタできなくなるじゃん」と軽々と言ってのける姿勢に、マイノリティを弱者として扱わせない覚悟を垣間見、すべてをエンタメにしてやろうという作家としての欲深さを感じ取った。何より、世界が勝手に「傷ついてるだろう」と思い込んでる側からの、「いえ、別に傷ついてませんけど?」という返し。ハッとさせられた。作品に頻出する「葛飾区」というワードには、自分が生まれ育った場所からカウンターストーリーを生み出してやろうという野心が見て取れる。全候補作のなかで、唯一ストリート感が匂い立ち、私はそういう作品を 支持したいと思った。受賞、おめでとうございます。 (本谷有希子)
以上のコメントを読んで、兼島拓也「ライカムで待っとく」は従来の沖縄=犠牲の島の物語を超えられなかったパターンの形骸化があったのか、と一瞬思った。中央の演劇人の沖縄への視点の置き所の弱点というわけではなく、演劇としての意表をつく新しい時代の感性なり発想がためされているのだと感じた。
負をプラスに転化するほどの図太さのようなもの、軍事要塞列島、亜熱帯の島のイメージや表層を覆すような何か、が問われているのだと~。
それは可哀そうな贄の島沖縄だけではない、実は沖縄も日本国家そのものも同じ位相に立っている戦後今年で78年目の現実なり戦後史を今一度反芻する中で、見えてくる不気味さなり不条理なりがあり、それがある面社会や世界のシュールを垣間見せるような何か、がありえるのかもしれない。
兼島拓也の次の作品に期待したい。沖縄で上演できる舞台であってほしい。
絶望の中に希望はある。日米を生活の磁場から相対化できる沖縄ならではのカオスの中から、指し示す何かがあるはずなのだ。
第67回岸田國士戯曲賞最終候補作品
- 石原燃「彼女たちの断片」
- 上田久美子「バイオーム」
- 加藤拓也「ドードーが落下する」
- 金山寿甲「パチンコ(上)」
- 兼島拓也「ライカムで待っとく」
- 鎌田順也「かたとき」
- 中島梓織「薬をもらいにいく薬」
- 原田ゆう「文、分、異聞」
- 松村翔子「渇求」
年中咲いているようなブーゲンビリア
青空をキャンパスに目を惹きつける
シーサーは守り神。鮮やかな濃いピンクは心を弾ませる
青空をキャンパスに目を惹きつける
シーサーは守り神。鮮やかな濃いピンクは心を弾ませる