(若い頃の愛らしい伊波ナベ(苗子)さん)
ナベさんの若い頃の写真が愛らしい!ジュリの女性たちと司令部の幹部との出会いとその末路の物語---真喜志きさ子さんの『母の問わず語り』ー辻遊郭追想ーに詳しい。
微笑んで見えた伊波ナベ(伊波苗子)さんだった。『母の問わず語り』によると、ナベさんは大正9年(1920)6月8日に出生し、同じ日に逝った。小さな通夜の空間に出席した人々は少なかった。甥姪の皆さん、親族はどなたも出席されていなかった。料亭那覇の関係者の女性がお二人と海軍ゆかりの方々が見えた。ナベさんの最後は那覇市福祉協議会の関係者が最後を看取ったようだ。お墓は識名の合同墓になるとの事だった。
(苗子さんに語りかけるきさ子さん)
出棺まで見届けたいというきさ子さんの気持ちに寄り添った。彼女はハブとも語り合える神女で、一緒に壺屋に住んでいるのだと、彼女は語った。インコと魂が通い合う生活をしている女性を知っているので、あながち嘘ではないと思っている。あらゆる生き物はどこか通じ合うところがあるに違いない。
お話の中でナベさんが牛島中将のそばに付いていたのは、太平楽という某医者が所有した妓楼で、ナベさんは薬草について少女の頃から習得したという。それでアロエを手放さなかったナベさんは牛島中将をお父さんと慕い、最後まで看取ることになったようだ。看護師のような立場だったという。今日、出棺に最後まで付き添っていた元軍人のOさんとお話しする中で、見えてくるものがあった~。牛島中将とナベ(苗子)さんの撮った写真を持っているという。拝見したい。
個人的には一度、辻の「ジュリ馬祭祀」の場でお会いした。料亭那覇の上江洲安明社長が、神女として、彼女を大切にもてなしている姿もあった。
真喜志きさ子さんの律儀さが感じられた空間。表情からこの間の苗子さんとの触れ合いの深さがうかがえた。毎日のように中島の大石の前に行き手を合わせている女性だ。古代信仰研究者のきさ子さんは手書きで執筆する。現代の利器と無縁な中で垂直に対象に向かっている姿は美しい。言葉を交わすたびに発見がある女性の次の作品(書籍)を楽しみにしている。彼女の『琉球天女考』は『マルドロールの歌』のような詩篇に思える。
あらためて『母の問わず語り』をめくってみた。伊波苗子(ナベ)さんについての言及がかなりある。「ジュリの自決を語る老女」「日本軍とジュリたち」「第三十二軍と慰安婦問題」に登場する。商才があって働き者だったナベさんは、親族のために尽くした戦後だったという。しかしきさ子さんと出会った時はすでに80代から90代。壺屋の崖の近くのトタン屋根の家に住んでいたと、記されている。そこから辻の老人ホームへそして永遠の眠りについた。微笑んだ表情だった。哀悼!
見送る人は少なかった~、しかし苗子さんはきさ子さんの『母の問わず語り』の中で生き続ける。