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世良さんの「アナタハン島事件」の映画史―沖縄をめぐる視点とテーマの変容―は研究発表も拝聴したのですが、アナタハンは演劇として以前資料を収集していたので、気になる論考です。映画史として取りあげていますが、先行研究がきちんと紹介されていますね。
戦後沖縄演劇史の中で取りあげたい作品ですね。世良さんが沖縄映画史をまとめる強い使命感で向き合っていることが、沖縄県立芸大に受理された博士論文『初期沖縄映画史の諸相』からもわかりますね。この博士論文はネットで読めますし、プリントもできます。沖縄映画論を書かれる皆さんは読まれることをお奨めします。映画史と演劇史がある面で連鎖劇や劇場、役者など重なる点が多いので、世良さんの映画論、沖縄映画史は演劇史にとっても有益な史料となっています。沖縄演劇史に興味をもっているみなさんにとっても一読をお奨めします。
伊野波優美さんの論文は以前読んだものにさらに「ふくらみ」が感じられます。文学論は頭をひねる謎解きのようなレトリックと論理や視点が頭の体操になりますね。日本文学は日本語で書かれた小説と定義し、沖縄文学の定義は?「沖縄県出身の作家による沖縄的な主題を持つテクストが現在「沖縄文学」と呼ばれる作品群として「日本文学」と一線を画す様相を呈して存在している。」と彼女は書いています。
「戦後沖縄の作家たちは多かれ少なかれ、ポリフォニックである」と大野隆之が指摘しているが、それは沖縄の言語環境(コンテクスト)を考えるとその傾向は強いのではなかろうか。ただポリフォニックな多声は移動する世界のどの都市でもエコーするようになっている現実でもあろうか。ポリフォニーはある面人類史の中で絶えず響いていた声でもあったと言えるのだろう。沖縄の場合、戦後も日本語、ウチナーグチ(琉球諸語)、英語、ブロークン英語などが重層的に流れる社会である現実があり続けると云えようか。民謡や舞踊、古典音楽など舞台劇も含めてウチナーグチがメインである。日常はメディア共通語が圧倒している。それでも日本語とウチナーグチのミックス言語も造成され続けているといえるだろうか。
彼女の論稿で気になったのは仲程の提示した犠牲者としての沖縄の類型としての遊女、娼妓、商売女、愛人としての沖縄人女性を媒介として他府県人、外国人を登場させてきた、という言説の事例として「オキナワの少年」や「嘉間良心中」などが揚げられていることである。彼女たちが犠牲のステレオタイプで語りえないところがある。ネイティブ女性とネイティブ男性の関係性は家父長制の長い歴史を踏まえる必要もありそうだ。
しかし日本文学、異化、芥川賞による評価、沖縄文学の確立など、コンテクストとテキストの葛藤、も含め、マイノリティー文学である沖縄文学の日本文学の中における位置づけへの試みとして、興味深かった。賞が極めて政治的な位相に包摂されるのは文化そのものがそうであることを意識させる。