横浜能楽堂にて【祝いの型 江戸と首里】の公演があった。18日の「能楽」は演劇学会があり、また自身の発表のパワーポイント作成の為観劇できなかった。しかし18日に横浜能楽堂に電話を入れたら19日の舞台は正面席が空いているという。急いで予約のお願いをした。能楽堂で演じられる「花売りの縁」を見たかったゆえである。つい最近5月15日に国立劇場おきなわで御冠船の復元舞台を見たばかりである。四間四方の橋懸り、北表、南表の舞台の立体的でスピード感のある「忠臣身替の巻」を見たばかりである。あの興奮はまだやまない。というか今回研究大会で私が発表したのは「劇場に見る組踊の系譜」である。朝薫の五番を上演した仮設舞台から沖縄芝居が演じられた劇場、そして現代へと、およそ300年の琉球・沖縄の演劇上演の舞台の変遷を視野において概観を網羅したのである。ディテールを埋めるには30分ほどの研究発表では時間が少なく、実際には論として原稿100枚でも書けそうである。
この間劇場そのもの、その機能に深い関心をもって来なかった。しかし、研究大会テーマが劇場と社会である。社会の中で劇場の意味する所は何なのか、劇場が社会、地域コミュニティーにとってどんなインパクトを持っているのかは昨今、2004年に開場した国立劇場おきなわの舞台を見てきて、見ながらいろいろ考えさせられる事が多いので、その流れでいったい劇場とは何なのか、「組踊」の舞台から近代以降の流れが気になりだしたのである。
そして今回パワーポイント作成をしながらこの間の流れが視野に入ってきた、戌の御冠船の躍方日記が翻刻されて以来御冠船芸能の素顔が徐々に明らかになっている。その過程で見えてきたものがあり、そして歪められてきたものの姿もまた気になってきた。
このテーマ設定において、1719年に明らかにお能の様式に基づく三間四方の舞台が近代化の過程で明治39年から40年頃にかけて張り出し舞台そのものもまた消えて行った沖縄の演劇の姿が見えてきた。しかし村々や多良間八重山地方の村踊りの中ではそれらが継承されてきたという事実が新鮮に見えてきた。特に八重山や多良間では固定化した舞台がそのまま継承されている。沖縄の地方でもバンク(仮設舞台)が設営されるが、三間四方にほぼ近い形態になっている。それらが今日の組踊の復活をまた支えているという事を思い知らされる。
ところがなぜか国立劇場おきなわの張り出し舞台は四間四方である。なぜか?それが研究発表をまとめる上で牽引した。なぜ、いつ三間四方は消えたのか?が大きなテーマである。そしてその理由も見えてきた。近代が大和の壮士芝居や新派劇、そして歌舞伎を導入する中で、というのはそれらの大和の劇団が沖縄にやってきて公演する中で劇場が大胆にそれらの劇の形式に沿った形式へと造りかえられていったのである。大和化が近代化そのものの流れだった。しかし驚くべき事は、大和の戯曲・舞台様式・スタイルを受容する中で沖縄はまた独自の演劇を生み出したのである。それは玉城朝薫が江戸上り一行として江戸に行った経験、また薩摩に行った体験・経験が謝恩・敬賀使節団としてのその経験がもたらしたものの大きさそのものが、彼が沖縄の総合芸術【演劇】を生み出したという紛れもない事実がある。
この文書は羽田空港で書き始めた。
【今回の出演者の面々】
実際に横浜能楽堂で見た琉球舞踊や組踊について批評を試みてみたい。
辛口になるかもしれない。しかし劇場そのものの空間ののびやかさはとても感極まる雰囲気だった。それは良かった。何より能舞台は観客に近い!その距離感と自然の光に沿った色合いの照明設備が好ましかった。520人ほど収容する能楽堂は今後の沖縄の組踊劇場を志向する上で参考になる。現在の国立劇場おきなわは多目的劇場であって、張り出し舞台にしても三方向からしっかり観賞・感応できる劇場ではない!額縁舞台としてはいいのかもしれないが、それでも客席から遠すぎる感覚がどうにかならないのか、劇場設計のミスなのか?この劇場に身体が矯正させられている感覚が払拭できない。なぜだろう。違和感が澱のようにたまっているのは確かなのである。
それから横浜能楽堂でさえ笑いが興り、観客と舞台が一つになる波のうねりがあった。それはたとえば「しよんだう」などの打組躍の滑稽な所作や「花売りの縁」の猿の躍りや所作に向けられていた。どうも横浜の鶴見には沖縄出身者が3万人は居住している、という事もあり、この能楽堂があえて【祝いの型 江戸と首里】にしたということはパンフの中に記されていたが沖縄出身者がかりに会場に多かったとしても、笑いは能舞台の演技とその芸や物語に向けられていたと言える。
今回初めてこの横浜能楽堂に来たが、劇場の中の雰囲気がいい。柱も邪魔にならないような色合いで舞台が身近に感じられまた地謡の方々ものびやかに歌い楽器を奏でている雰囲気に見えた。近さ、この感覚が大切なのだ。おそらく国立劇場おきなわに欠けているのがこの「近さ」である。多良間の八月踊りのあの舞台はもう舞台と観客席とは目と鼻の先で、まさに一体である。あれほどではなくとも「近さ」を追求しなかった設計の欠陥が気なる。東京国立劇場の小劇場でさえ、距離の近接さを感じさせた。だからそこで上演された「遁ぎれ結婚」は「国立劇場おきなわ」で上演された時以上に舞台と観衆の呼吸は呼応し合っていたのである。いったい劇場と観客の関係は何を理想とするのだろうか?
たかが劇場に思えるがどうもそうではないことが今頃迫ってくるのである。それにしてもあの屋根付きの御冠船舞台の固定化がこの横浜能楽堂の規模ででも実現できたらどんなにいいことか、と思うばかりである。もっと立体的な面白い舞台が実現するかもしれないのだ。
全体的な印象として、橋懸りから本舞台への時間が従来の沖縄の額縁舞台や張り出し舞台と異なるので、地謡の方々も立役の方々もたいへんだっただろうと感じた。登場して舞台中央に出るまでの時間の悠長さを無視すれば後は三間四方の舞台の狭さが気にならずそれが大きな世界として感じられてきたのはいい。琉球舞踊はたおやかに楽しめた。かぎやで風、四季口説、かせかかけ、上り口説、独唱赤田風節(照喜朝一)、打組躍しよんだう、独唱「仲村渠節」(城間徳太郎)と続いたが、様式舞台の空間との違和感は感じられなかった。お能の舞台は群舞には似合わない。動きのあまりない古典女踊りや二才躍り若衆躍りなど、1人では十分で多くて4人かーー、それで十分である。美女2人、醜女2人の「しょうんだう」の4人で問題なく感じられた。
問題は「花売りの縁」で、従来見慣れている舞台を小さくしたイメージは拭えなかった。狭い空間でどうこの間の演技を凝縮させるか、その辺で動きの大胆さが損なわれているような感じも受けた。お能の舞台は役者の表情や声音、呼吸がストレートに入ってくるので、逆に役者にとっては怖い舞台ではなかろうか。生の声のトーンもストレートに入ってくる。その演技者のすべての技量が裸になって迫ってくる。その演技の技量や役柄の魅力や彼のこの間の人生の総体が鏡に写されるように見えてしまう怖さを、さてどれほどの沖縄の古典芸能の担い手が意識して舞台に立ったのか、その辺がまず気になった。のびやかに演じていたのは子役の比嘉克之君である。そして猿引の嘉手苅林一さんである。
宮城能鳳氏の乙樽は少し風邪気味の声のトーンに聴こえた。遥々首里から10年以上も離れて暮らす夫を1人息子と探し尋ねる妻の沈着な思いの深さが伝わってきたが、どこか寂しげでそれでいて気骨のある妻の役柄に見えた。森川の子を夫だと察知して後の乙樽が物語を静かに先導していく姿はある力強い意志さえ感じられ、改めてこの組躍に惹きつけられたのも事実。一方の森川の子が零落して花売りをし、塩屋で暮らすその身のすさびの中の士族の誇りを親泊久玄氏が演じていた。再会の喜びに至るまでの夫婦と子供を挟んださや当てなど微妙な心理のやり取りが面白いと思った。現代の家族の心理劇にも通じる人間の関係性のありようがそこに見える。舞台の真中に立った時の演技者の力量、魅力は面をかぶるわけではないので、直面ながら、表情が生きているかどうか、気になった。それが唱えによってその気のようなものも晒されていく。そこでのびやかな風が感じられたのが、猿引と鶴松だったのだ。渋みのある男の魅力声があるだろうか。吟使いの違いもあろうが、耳に心地よい唱え、心に張りをもたらす唱えがありそうだ。声音の魅力とも言うべきものの在りかが気になった。
薪木取の島袋光晴氏の唱えは独特な唱えで口語の雰囲気である。それがまた役者によって唱えの甲乙があるのだが、好き嫌いもあろうかと思う。個性的に耳障りがよければいい。のびのある声音の魅力とは?薪木取の老人の持つ枯れた魅力のようなもの、人生の哀歓を感じさせる唱えと扮装はまた格別であるのだろう。繰り返される同じトーンの中で薪木取を演じる他の方の唱えに耳を澄ませて比べてみたいと思った。
猿の子役はいつでも楽しい。お能の中に猿の登場はなく、狂言には登場する。明らかに朝薫は18世紀初頭に狂言を薩摩や大阪や江戸で観劇したのであろう。その辺の研究も最近は綿密に検証されつつあるが、さて実際はどうだったのだろう。もっと比較してみたいものである。
この組踊の中で18世紀の塩屋の様子が伺われ、また辺野古などの地名まで登場するのが興趣である。作品の中身に引き寄せられた。お能の舞台では翻訳など出ないので、台本を観衆が一応(一斉)にめくる音が響いたのが面白かった。その点国立劇場おきなわはサービス精神が旺盛である。組踊台本をわざわざ日本語訳で見せなくともいいのではないのか、と思った次第である。
実は楽屋まで押しかけて少し地謡の方々や立役の方々とお話した。能舞台は顔が晒されるので緊張感が高まるとの事だった。そして声が通る劇場だとのお話だった。マイクなしで素の舞台である。「いつもやっているし、また能舞台は初めてではない」と親泊氏はお話された。能舞台の組踊をわたし自身は初めて見せてもらったがいろいろと考えさせられた。いい体験だった。みなさまごくろうさま!もちろんお能と組踊の競演は沖縄でも何度かなされていて、それらの舞台は額縁舞台の上の能舞台様式を見ているが、実際のお能の劇場の空間とは全く異なるのである。
さて沖縄はどの方向へ行くのだろうか?御冠船時代の舞台に回帰した空間を求めるのもいいのだろう。そこから見えてくるものを手繰り寄せてみたい。額縁舞台も張り出し舞台も距離感がある。距離感のない大衆芸術を目指すのか、矯正された身体を追求するのか?儀礼儀式的、格式ある式劇を目指すのか?歓待芸能、御膳進上芸能だったんでしょう?何も堅くなる必要はないですよね。御伽としての芸能でもあった。原典に戻るとは演劇や芸能は誰のものかという事かと考える。王や冊封使の組躍ではなく一般大衆のための組躍ですよね。そのへん私語はおやめくださいの規範と別の方向性はありえないだろうか?そもそも演劇は観賞の対象でもあったが一般大衆と共に楽しめる物ではないのだろうか?(もちろん、超自然的パワーへ供与する芸でもあったが)、「したいひゃー」と声もかけられないほど身体が委縮する劇場は、やはりもっと身近に感じられるように改造しなければ?!
あるいは「さかさま執心鐘入」のように「国立劇場おきなわ」を笑いと泣声の渦で揺り動かすほどの作品と演技者の技量、感性、そしてダイナミックパワーで「民衆劇場」に衣替えさせる事あるのみかな?
(日大芸術学部近くの街並み!雰囲気が良かった!昔、此の界隈はかつての大物漫画家が結構住んでいたという。)