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面白かった。人間(さま)、人間社会と動物(家畜・ペット・調教される動物も含め)の関係性を基軸に人間と他の無機/有機的存在の関係性の秘密・綾を面白く読み解いた社会学で意表をついている。ペットと人間の関係がコアになるが、あらゆる動物と人間の関係性のありようが、人間社会の構図≪縮図≫に重なっていく。
ツイターを見ると、動物保護主義者、動物解放論者、ヴェジタリアンの方のツイートも目立つ昨今である。残酷な人間による動物収奪の映像や写真を見せつけられると、嫌がおうにも、動物の生き物としての存在に感情移入する。ヴェジタリアンになりたくてなれない中途半端な状態に陥っている。この本は、人間と他者との関係のベクトル・方程式の在り方をある面、指示している。
ネット辞書のウィキペディアを存分に利用して(信頼して)論を推し進めている所は若者ならず、スマホやPCなくして存在がないと自認する老若男女に受容されるだろう。ネット時代ゆえのウィキペディアの定義を存分に引き出しているところは、ましこさんの時代の推移をある種肯定的にとらえた柔軟さなのかもしれない。
琉神マブヤー論も展開されている。それも含めて考えたことを書きますね。那覇のジュンク堂には「ましこ・ひでのり」コーナーもあるとお聞きした。毎年発想の鋭い社会学の本を上梓されているそのエネルギーに感服です。
第一部 人以外の動物の位置づけ
1章 ペットへの愛着・執着
2章 家畜とは何か 食用、輸送(耕運)、セラピスト(慰安)、パフォーマー系、身代わり(実験動物)系
この章で例示されているパフォーマー系家畜の典型例としての競走馬の物語(リアル・ストーリー)は残酷物語である。競馬に酔いしれる人間の残酷さが大金を冠にした数々のレースなどに潜んでいる。厩務員の生の言葉は競馬残酷物語である。動物園の動物にしてもそうだ。
3章 えづけと観察の社会学ー≪感想←餌付けによる支配と生態系の破壊があるね≫
4章 「琉神マブヤー」にみる都市化=非自然化傾向の社会学
マジムンたちの攻撃目的は生態系の復旧、しかし沖縄の生態系の破壊をもたらしたのは、米軍でも明治政権でも薩摩藩でもなく、植民地化が原因とは言い難い。むしろウチナーンチュが大和世と嘆きつつも受容した時空がもたらした公共工事やリゾート開発、都市化や大和化(消費生活の総体)が動植物を苦しめている生態系の破壊であり、マジムンたちはそれを攻撃している。←鋭い。沖縄の現況をもたらしたのはそれを良しとしたウチナーンチュ自身だとの鋭い批評である。そして沖縄の生活文化の激変の本質とは動物との距離化=生活の都市化=日常生活の非自然化・生活文化の非地域化である。←なるほど。それが植民地主義的な人工的空間だと、ズバリの指摘だ。
非自然、脱自然化=人口的都市空間への非難の眼差しだ。新都心は植民地沖縄の全き象徴だと書いた方がいたが、日本への同化、近代の豊かさを求めて追随していったウチナーンチュの追究した時代の結実が、現況である。その指摘は、なるほどとは思うが、ODAのモデルケース沖縄は、しかし、大和資本による都合のいいかも(餌食)でありつづける。戦前の寄留商人が跋扈し官僚機構の支配する側のほとんどがヤマト人という時代から、27年のアメリカ占領時代、そして、復帰後の現代、いわゆる沖縄改造の主人公は日本政府であり大手資本であり彼らの飽くなき利潤追求の刃だということは無視できないだろう。確かに住んでいる多くのウチナーンチュの欲望の体系と合致した構造もありえる。しかし、ここが軍事植民地の罠にはまったままだという現実はそのままなんだよねましこさん。主体としてのウチナーンチュがじゃー、どう現実の刃(富ももたらす)に抗しているかと聞かれたら、絶えることのない抵抗運動であり、異議申し立てだと言えようか。
5章の捕鯨擁護論と反捕鯨論の社会学
はなるほど、に思えた。欧米の欺瞞と偽善、鯨肉=国民食の幻想はなるほどですね。捕鯨文化論の欺瞞性もあるようだ。かつて海豚が捕獲された名護湾だった。赤く染まった入江があった。
第2部 家畜化/ペット化としての対人イメージ
も引き込まれて読んだ。昨今の体罰自殺問題への視点、教育への視点が調教(しつけ)ということばで炙り出される。
6章 調教/しつけの役割
7章 制服の社会学
制服フェティシズムのピラミッド構造など、セクシュアリティの時点まで下りて分析、ポルノの定番の調教と制服(権力イメージ)ーサブカルチャー的で実は表象としては十分感情動物で社会的ヒエラルキーを刷り込まれている集団的エロスとタナトスを身体と観念に包摂す人間が、そこに見え隠れしている。ハットさせられるユニフォーム思考(陶酔)が社会現象の中にあること、一方でその規範をまた内在化させる幻想や感性のありかに、囚われ人=人間を意識せざるをえない。(my impression)
8章 親権を取り巻く現代的状況
ランドル・コリンズの愛と所有
9章 愛人と恋人と配偶者
親密圏における暴力と密室性 家族という危険地帯
10章 ストーキングとアディクション
愛している錯覚と耽溺
伊波普猷の『沖縄歴史物語』≪1947年≫の中の有名な言説が引用される。「地球上で帝国主義が終わりを告げるとき、沖縄人は「苦が世」から解放されて「あま世」を楽しみ十分にその個性を生かして、世界の文化に貢献できる。」それに「天皇メッセー」ジをましこさんは並べてみせる。アメリカに沖縄を売り渡した天皇のお言葉がある。あれから70年※
おわりに
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人間と動物の関係性から社会現象を分析してみせた本だが、最近ペット犬を失ったばかりで、その顔がちらついているので、身につまされた。いつでもいまでもペットのウルトラマンタロウ君の顔が脳裏に浮かんでくる。もはや生きている限り、タロウの姿が私の中に住み着いているのである。家畜としての犬や猫については排除した論稿だね。ツイターを見ると動物たちの様々な現在、がまたこれでもか、と情報が流れてくる。虐待が多いが、それでも中国で食糧にされるためにトラックに積まれた生きた500頭もの犬が救われた事例がやってきたりもする。殺される前に涙を流す雄牛の映像が流れてもくる。動物実験の残酷さを追求している方々もいる。動物をモノ化した人間の歴史が、少しは変わりつつあるようだ。生態系の中の仲間としての意識が広がりつつあるのかもしれない。人間の欲望や快楽のために供されてきた(いる)多くの生き物たちの存在に思いが走る。生存そのものの罪悪感がやってもくる。そしてそれでも生存を自己正当化する論拠を持とうとする。持っているゆえに自殺しない。生きることの価値体系のからくりがあり、食物連鎖の頂点に立つ人間さまなのね、と、感情動物丸出しになったりもする。んん、しかし、動物と人間の関係性が、つまり弱者と強者の関係性の綾まで比喩的に現象を解剖してみせた手際は面白く、ましこさんの思想的スタンスが見えてくる。ポルノ的表象にしても表現の自由の肯定が背後にある。人間のイマージネーションの世界(幻想)は切り捨てることはできないゆえに、そこにまた新たな関係性を生み出す可能性は潜んでいるのね。謝
ましこさんのほかの社会学のご本も丁寧に読みたい。