志情(しなさき)の海へ

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Women's Action Network が開設され、上野千鶴子の「生き延びるための思想」講演がUPされている!いいね!

2011-08-02 04:50:32 | ジェンダー&フェミニズム
                 【女だけのウチナーシバイ劇団「うない」の楽屋風景】

たまたまネット逍遥をしてジェンダーや女性学関連を見ていると、上野千鶴子さんの東大退職最終講義「生き延びるための思想」のライブ講演を聞くことができた。聞きながらメモなど少しとっていたのだが、彼女の現在の立ち位置、この間の思想の経緯、3・11を経ての日本の現在への視点や言及は、とても共感できた。

日本の演劇研究の中でフェミニズムやジェンダーなどの分野がとても弱いと感じている。しかし、世界のPerforming Arts 研究分野での世界的な研究者は意外とフェミニストが多いというのがこの間の国際学会に参加しての実感だが、実際、学会会長は女性も多い。日本のフェミニズムは世界に遅れているのは事実のようだ。ジェンダー関連は著作も多いようだが、こと運動との連動など、弱いように見える。日本の歴史や風土・文化との関係の問題も大きいように思える。その辺を大胆に、この間切り込んできた上野千鶴子さんたち先駆者(パイオニア)の力は大きかったと言えよう。

新編 「日本のフェミニズム」全12巻を是非紐解いて読みたい。県立図書館はすでに取り寄せているだろうか?1970年のウーマンリブの運動からかれこれ40年の歴史だと上野さんは話した。フェミニズムが【女の経験の言語化・理論化】と明快に語られる時、女である自分自身を研究素材・対象にすることの大切さを感じさせる。

さて3・11を経て、上野さんの弁舌は熱がこもっている。政府と企業とメディアが癒着したら国は滅びると明言!原発問題にも曖昧に通り過ごしてきた知識人としての自らも切開してみせた。

そして現在彼女は「人間の安全保障が大事だ。弱者が弱者のまま尊重される社会」を求める。当事者主権である。私の運命は私が決める思考の権利を訴える。弱者の自己正義権の獲得はいいね。

女性学=当事者研究に他ならない。ケアの社会学=当事者が社会を変える!

ネオリベラリズムの構造も切開して見せた。勝間や香山への言及など笑いを取った。つまり現実の社会の構造を肯定した上で成り立つ論の問題を指摘している。それは彼女がその上に成り立つ大学などの日本の知の構造をも批判の射程に置いていることを暗に告げている。弱者という言葉がすべてを言い得ているのかもしれない。

身近な大学知識人のネオリベラルな姿勢を確かに彼女は突き抜ける感性・思想の矢を持っていると言える。じっくり聞くには時間がなかったが、また戻ってきて拝聴したい。彼女たちが推進するWomen's Action Networkは今後の日本の社会に大きなインパクトを与えるであろう。

女性たちが誰かの意志によることなく、自らの意志で投票行為をする時(つまり夫や父や会社の上司の意のままではなく)、日本は変わっていく可能性がありえる。まだまだ主体ではありえない多くの女性たちの存在がある。

(神戸空港からの帰りの飛行機から撮った白い月)
3・11は8・15をオーバーラップさせる、と上野は言う。焼け野が原から生きるために立ち上がった日本人たちがいると。死ぬための思想ではなく、生き延びるための思想を!

とても感極まる講演だった。そこで沖縄に生きる私はまた別の事を考えたりしていた。彼女たちが編集した「日本のフェミニズム」を紐解く。そして戦後66年の年月を経た現在、その日本の安寧(安保)のために踏みつけにされた我が沖縄の66年をそれと対照化させたいとーー。日本という国の暗部/陥穽はここ沖縄に充満しているのではないのかとーー。その沖縄におけるフェミニズムの実態はどうなのか?ジェンダーの問題はどうなっているのかとーー。

弱者ということばが鍵概念である。弱者の血・命を啜って成り立ってきた日本の生態(政体)がある。存在そのものが多くの弱者の血を啜っているということへ至り付かない上野千鶴子ではないのだろうか?世界を視野に入れてはなかった。あくまで日本国内のフェミニズムと社会の動向を語った。彼女の中には踏みつけにしているいつでも弱者の沖縄への眼差しはなかった。なくて当然だが、その穴埋めを沖縄は独自にする必要がある。男と女の関係性の構造的主従関係はここにも貫かれている。女たちの声は吸い上げられていないという現実はここにも溢れている。

女たちが永遠の他者ではなく主体に転換できる社会を!この沖縄社会でも、文化一つをとってみても「DVやセクハラをする文化人(男たち)」が新聞紙面でも大きな顔で論を張っている「あらおかし」の現象が多い?!

内なる女への差別をトイレットペーパーを水に流すようにごまかしながら大きな顔をしている男たちの言葉を含めた支配の構造があるのは事実で、彼らの表に出る言葉と日常の身体や感性のありようの落差があり、それらを含めて人間の関係性の綾を解くとそこからまた新たな関係性が見えてもくる。

ほんとうの言葉のありか?愛や志情のことばのありかを求めてやまない。制度的関係性の絶望・地獄もある。当事者性ということばはいいね。女の経験の言語化、論理化もいい。しかし人がどれだけ自らの心に誠実に生きえるのか、男も女も子供も生きている間、問われ続けるのだろうね。社会(国)のそれぞれのシステムの中で自由を愛を正義を真実を叫ぶ!

【久しぶりに母を訪ねた帰りの自動車道から見た夕焼け!母は五木寛之と101歳の僧侶の対談集を読んでいた!】


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