テレビはひねもす忽然と津波に襲われた街々の映像を流す。一夜明けての無残な残骸、死者数、また行方不明者や遺骸の情報、そして取り残された人々、避難した人々の様子などが流れる。茫然自失、自然の脅威の前でなすすべもなくただ見据えるだけの時が流れ、一夜、二夜が明け、救出/復旧作業が行われる。そして最も恐れていた原発の事故!原子炉内の水素が爆発し放射能漏れが起こっている。世界が最も注目している原発の詳しい情報の行方は曖昧なままで全体があまり見えない。原発の不完全さが露わになった現在、安全神話が崩れたようだ。エネルギーはソーラーエネルギーへ、新しい科学技術による方向転換を余儀なくされるのではないだろうか?石油でも原発でもない第三のエネルギー開発が早急に求められているのだろうーー。
終始被災地情報を伝えるラジオを聴きながらまた高江に行った。春の新緑を求めて、そして谷底のかつての高江小中校の庭に、立つ目的でーー。父の当時の写真アルバムも一緒に向かった。若草色の森の色合いに心が洗われていくような気がしていた。こんな春をいつも迎えていたのだ。谷底のかつての校長住宅はまだ健在でそこに人が住んでいて犬もよく吠えた。しばらくすぐ横の校庭に立った。そこから始めよう。
(草が生い茂る中に立っているかつての学校碑)
新しく建てられた高台の校舎/校庭を下へ下へと下っていった。谷底である。古い学校跡のすぐ横を川が流れている。せせらぎの音に耳を澄ましながら、かつてそこで川エビを取ったのだと、追想にふける。しかし遠い昔の物語。道をさらに下ると橋があり、川が見下ろせた。ここで泳ぎここで小さな生き物たちと遊んだのだ。しかし私が戯れたのはほんの2、3日である。その川の上の森の中に入り込んで山桃や水桃を採った。それも確かな思いでである。
運動会の日、大きな木の幹によじ登って見ていた女の子がいる。しかし、父といっしょに過ごしたのは私ではなかった。かつてそこから空が近い所へと学校を移転する事が父の大きな使命だったこと、あの時の父の志のカケラでも私は共有しているのだろうか?この小さな時空から見えた世界!川は森はそのままそこにーー。鮮やかな黄緑、緑の彩りの美しさにただ圧倒されていた。自然の色を浴びる贅沢なひと時、鶯の啼き声も聞えてきた。水のせせらぎがここちいい。そのままこうしてここで、しかし、つかの間の幸福感の中、引き返す。春を写真に撮りたいとしばらくヘリパッド反対の座り込みをする方々の横を通りすぎて萌えいずる新緑を撮り続けた。
(橋の下でせせらぎが流れ、鶯も啼く)
ラジオは音楽を挟み避難/避災した人々、身うちの安否が分からず寒さに震えている人々への励ましの手紙が読まれていく。街への救助を求める声、外国からのレスキュー隊のニュースなど、諸々がことばとして伝わってくる。ラジオにこれほど長く耳をすませたことがない昨今である。大きな不幸の前で心がしなっていく。何をしても鬱になる気持ちの中に沈んでしまうのも確かだ。しかしそれ以上に寒さに震えている被災にあわれた方々は苦しんでいるのである。一日も早い街の復興を念じよう。家族を失い、家を失い、街を失った方々に多くの支援が早急になされることを念じるばかりである。私にできるのはわずかな義援金だけかもしれない。ニュースを見たり聞いたりすることも嫌になってしまいそうである。しかしーーー、災害はいつどこで誰の上に降りかかるかわからない、という厳然とした事実の前で、大自然(地球そのもの)の中で謙虚に生きていくことが問われているようだ。
ロナルド・リーガンという名の艦隊が日本の近くにやってきたのらしい。核搭載した軍事艦隊から飛んだヘリの乗務員が被ばくしたという。燃料がないゆえに、緊急事態に電気がストップしたゆえに原子炉に問題が起こったのか、よくまだつかめないが、以前原発についてネットで調べていた若者は言いきった。「原発のある所には住めないよ。10キロ内でもやばいね。原発がある地域に住んでいるからと言って結婚を反対されることもあるらしいよ。政府が安全という事は信用できないよ」。一度、原発の危険性について詳細をUPしている方のサイトを紹介されたが、まだそのHPを見たことはない。
ネット通の若者たちは大人以上にこの世界の「おぞましい物/事柄/不安の源」にすでに触手を伸ばし、目を通しているのである?!
自らの意志に反して(予期せぬ自然災害で)命を断たれた方々にどのように哀悼の意を表せばいいのだろうか。大自然(地球)に祈りたい気持ちがましてくる。家族を失い、家を失い、街を失った方々が希望を失うことなく明日への一歩を踏みしめてほしい。ラジオから流れる手紙は勇気を与えるもので聴いている私自身も勇気を分けてもらったような気がしていた。その勇気で明日を乗り越えることーーー、しかし、しばらく気落ちしそうだ。何も本気で手をつけられない状態ーー。
終始被災地情報を伝えるラジオを聴きながらまた高江に行った。春の新緑を求めて、そして谷底のかつての高江小中校の庭に、立つ目的でーー。父の当時の写真アルバムも一緒に向かった。若草色の森の色合いに心が洗われていくような気がしていた。こんな春をいつも迎えていたのだ。谷底のかつての校長住宅はまだ健在でそこに人が住んでいて犬もよく吠えた。しばらくすぐ横の校庭に立った。そこから始めよう。
(草が生い茂る中に立っているかつての学校碑)
新しく建てられた高台の校舎/校庭を下へ下へと下っていった。谷底である。古い学校跡のすぐ横を川が流れている。せせらぎの音に耳を澄ましながら、かつてそこで川エビを取ったのだと、追想にふける。しかし遠い昔の物語。道をさらに下ると橋があり、川が見下ろせた。ここで泳ぎここで小さな生き物たちと遊んだのだ。しかし私が戯れたのはほんの2、3日である。その川の上の森の中に入り込んで山桃や水桃を採った。それも確かな思いでである。
運動会の日、大きな木の幹によじ登って見ていた女の子がいる。しかし、父といっしょに過ごしたのは私ではなかった。かつてそこから空が近い所へと学校を移転する事が父の大きな使命だったこと、あの時の父の志のカケラでも私は共有しているのだろうか?この小さな時空から見えた世界!川は森はそのままそこにーー。鮮やかな黄緑、緑の彩りの美しさにただ圧倒されていた。自然の色を浴びる贅沢なひと時、鶯の啼き声も聞えてきた。水のせせらぎがここちいい。そのままこうしてここで、しかし、つかの間の幸福感の中、引き返す。春を写真に撮りたいとしばらくヘリパッド反対の座り込みをする方々の横を通りすぎて萌えいずる新緑を撮り続けた。
(橋の下でせせらぎが流れ、鶯も啼く)
ラジオは音楽を挟み避難/避災した人々、身うちの安否が分からず寒さに震えている人々への励ましの手紙が読まれていく。街への救助を求める声、外国からのレスキュー隊のニュースなど、諸々がことばとして伝わってくる。ラジオにこれほど長く耳をすませたことがない昨今である。大きな不幸の前で心がしなっていく。何をしても鬱になる気持ちの中に沈んでしまうのも確かだ。しかしそれ以上に寒さに震えている被災にあわれた方々は苦しんでいるのである。一日も早い街の復興を念じよう。家族を失い、家を失い、街を失った方々に多くの支援が早急になされることを念じるばかりである。私にできるのはわずかな義援金だけかもしれない。ニュースを見たり聞いたりすることも嫌になってしまいそうである。しかしーーー、災害はいつどこで誰の上に降りかかるかわからない、という厳然とした事実の前で、大自然(地球そのもの)の中で謙虚に生きていくことが問われているようだ。
ロナルド・リーガンという名の艦隊が日本の近くにやってきたのらしい。核搭載した軍事艦隊から飛んだヘリの乗務員が被ばくしたという。燃料がないゆえに、緊急事態に電気がストップしたゆえに原子炉に問題が起こったのか、よくまだつかめないが、以前原発についてネットで調べていた若者は言いきった。「原発のある所には住めないよ。10キロ内でもやばいね。原発がある地域に住んでいるからと言って結婚を反対されることもあるらしいよ。政府が安全という事は信用できないよ」。一度、原発の危険性について詳細をUPしている方のサイトを紹介されたが、まだそのHPを見たことはない。
ネット通の若者たちは大人以上にこの世界の「おぞましい物/事柄/不安の源」にすでに触手を伸ばし、目を通しているのである?!
自らの意志に反して(予期せぬ自然災害で)命を断たれた方々にどのように哀悼の意を表せばいいのだろうか。大自然(地球)に祈りたい気持ちがましてくる。家族を失い、家を失い、街を失った方々が希望を失うことなく明日への一歩を踏みしめてほしい。ラジオから流れる手紙は勇気を与えるもので聴いている私自身も勇気を分けてもらったような気がしていた。その勇気で明日を乗り越えることーーー、しかし、しばらく気落ちしそうだ。何も本気で手をつけられない状態ーー。