先日のバスに引かれそうになった事故。
運良く怪我一つ負うこと無く今を生きている。
私は高校生の時、事故で命を落としました。
きっと!恐らく・・・。 私の親にも何度か云われた。
でも体に障害を残すことなく今に生きています。
その事故をきっかけに、人は何故この世に生まれ、何をするために生きているのかと、自分に対して問い続けてきて、50歳の時その答えと思える考えに辿り着きました。
実に35年掛かりました。
でも、時々家族には話をしますが、そのような話しに共感する人はなかなかいないので、自分の中だけに納めています。 家族も殆どその様な話は「ある訳ない」と聞く耳を持ちませんから。
自分のやりたいことも無く、行動も起こさず不平不満ばかり言って日々を過ごす、誠にもったいない人生を歩んでいる人が多すぎる気がする。
聞くと、人は死んだらそれまでだから、苦労して努力するのは馬鹿らしいと言う。
要は死ぬまで、可も無く 不可も無く 無難に 「楽に」過ごした方が得だと言う事らしい。
私は、小学校5年か6年の時の教科書に「輪廻転生」と云う言葉があり、先生から「人は死んでもまた生まれ変って来る。それを輪廻転生と云うんだ」と教えられ、これまで疑わず信じて来た。
でも、それがどういう事で、どう生きなければいけないのかが分からなかった。
しかし、前述の様な生き方が答えだとは思えない。
運がいい人だけが苦労せず裕福な生活を送れるのだから苦労した分、損をすると・・・??
その「運がいい」と言う「運」はどこから来るんだい!
私は、努力もせず行動も起こさない人に、良い運を捕まえる事など出来ないと思っている。
運は、常に目の前の川を流れている。
「運が良かった人」と云うのは、ある人は捕まえるための橋を架け、ある人は船を造り、ある人は泳ぎを練習し、その運を捕まえる努力をしていると思う。
竹竿程度の小細工で「大きな運が捕まえられなかった」・・・と諦める人も多いと思います。
目的が「単にやって見たかった」なら運を捕まえられなくても不満はないはず、そこで目的が変化したなら捕まえるまで努力するれば良い。
自分が異常なのか?
中学時代からやりたい事だらけで、どれから手を付ければ良いのか分からない程だった。
今でも気持ちは変わらず、高校時代から多くのことを続けている。
若い頃は、「これはとっておきの事だから後に残しておこう」 なんて思って使わなかったり、やらなかったりすると、間も無い内にその「とっておきの事」は色あせて、ただの事になってしまう経験を何度もしたので、30代になってからは取り置きしない事にした。
その時、その場所で、とっておきの事を惜しみなく「実行する事」「見る事」「感じる事」。
その積み重ねは必ず良い方向に向けて進んで行ってくれていると考えている。
綺麗なものを「綺麗」と感じる素直な心になれると感じる。
最近、そんな人たちと共に生きて行けたら楽しいだろうと思う事が多い。
残念ながらその点では頼りの家族も期待薄だ。。。
世間一般、殆どの人がそうなのだろうか?
観光地や素敵なお店の中でも、「わーこれキレイ!」とか「わーステキ!」「美味しそう!」などと声を張り上げる人も結構見かけるのだが、そういう人たちは普段どこに行ってしまっているのだろう。
他人の目ばかり気にしている人には、そんな感激の言葉は出せないと思う。
私は、良い物や、綺麗なものがあると、そんな大きな声は張り上げないが、周囲の人たちに直ぐに伝えまくる。
以前のブログで紹介した「パスタノーゲン」もその一つだが、会社の近くの薬局の方からはあまりの売れ行きに心からのお礼の言葉を戴いた。
でも、この塗り薬を、ひっそり一人で効果を実感してるより多くの人が助かった方が嬉しいですよ。 と伝えた。
57年間生きて来て感じることは、自分だけのために行う事は邪魔が入る事が多いけど、他人のために行う事は追い風が吹くと言う事は実際に感じてきた。
東京の桜はもう殆ど終わりに近づいてしまったが、那須は明日の土、日あたりが丁度見頃になると思う。
大作のビデオ編集も終盤を迎え、心にも余裕が出て来た。
明日は、花見サイクリングに行こうと思う。
筋肉痛になったら、パスタノーゲンあるしね。 OK!