高校生の頃 十和田湖畔に立つ「乙女の像」を初めてみました
その時「乙女」ではないと思った記憶があります
今回の旅で その理由が少しわかりました
高村光太郎は 東京出身で 彫刻家 画家 詩人として活躍
画家である 妻 智恵子と死別後
智恵子への永遠の愛を綴った「智恵子抄」を出版した
私の知識は その程度・・
なぜ 花巻に「高村光太郎記念館」があるのか 戸惑いました
そして そのその記念館を訪れ
初めて 智恵子の死後から「乙女の像」制作までの経緯を知りました
高村は 戦争協力詩を多く発表
そして 終戦間際の空襲でアトリエや多くの作品を焼失しました
終戦後 花巻市の郊外の地に 粗末な小屋を建て7年間暮らしたのです
(画像は その小屋)
戦争に協力した自責の念からか 彫刻からも離れ
障子1枚 板戸1枚外は極寒の地で 畑を耕し 自炊をする毎日でした
そんな高村に 再び 彫刻の道が開かれます
1950年(昭和25年)
十和田の国立公園15周年を記念してモニュメント制作を依頼されました
高村は 厳しくも美しい十和田の自然に 智恵子を蘇らせたのです
「乙女の像」というのは あくまでも観光用のネーミング!
乙女という名と 像との 隔たりが 高校生だった私には謎だったのです
そして
この像が 高村の最後の作品となりました
さて 私が泊った 鉛温泉の宿には 4つの湯場がありましたが
その一つ「白猿の湯」は 立ち湯です
深いところは 私の顔半分までの深さがあります
元々 混浴なのですが 今は 決められた時間は女湯になります
1階の扉を開けると ずっと下に 岩をくり抜いたという湯舟が見えます
石段をそろそろと降りていくと 片隅が脱衣する場所となっています
見上げると 天井は遥か上!
つまり三階分が 吹き抜けになっていて ぐるりと曇りガラスの窓に囲まれています
お湯は足元から湧いている自墳泉なのだとか
お湯はトロリと肌にまとわりつくような優しさ
石段を降りてきて 服を脱いだ女性が 私の視界を横切りました
「 あっ・・ これこそ「乙女の像」よ! 」
私は 心の中で叫びます
ブレた線が一つもない 張りつめた美しさ
身体機能の頂点にいる輝き
土から生えているかのような 無造作さ
その若い女性は 湯舟の向かい側に身を沈めました
「こんばんは」と 私は微笑みました
彼女は 真面目そうな目を向けました
「ここのカランは 蛇口をひねってもお湯が出ないんですね?」
「ここは お湯につかるだけ 体を洗うのは他のお風呂でするのよ」
他愛もない話をしながら
立ち湯は10分も入れば もう満足
「お先に!」と言って湯舟を後にしました
もし 私が「乙女の像」をつくる?描く?ならば
「今の女性をモデルにするな~」と思いながら・・・
翌朝 歯を磨きながら顔上げると 彼女が横にいました
「おはよう!」
彼女の瞳が真っ直ぐに私に向く
睫毛の翳が濃く目を縁取る
「今日 帰るんです」
「あら 私も」
「どこから来ていらっしゃるんですか?」
「横浜」
「ええっ そんな遠くから?」
「あなたは?」
「地元のK市です 大学生です」
「そお いつでも来ようと思えば来れていいわね」
彼女のずっしりとした重み
それが 東北の女性なのだ
同感でした、私も何度も見ましたがそのたび、身体の線がシャープじゃない、“オンナ”だなぁと
かつて遠野や安達太良山周辺を巡って「智恵子抄」に想いを馳せました
高村光太郎は彫刻家としての方が著名ですが、私にとっては詩人ですから
では何が良いかと言われると、考えつかないけど・・
私は、初めて見た時の名前とのギャップが理解できなくて、以来、十和田湖に行っても像に近づきませんでした。