先週の『日曜美術館・アートシーン』で、北海道岩内の画家≪木田金次郎≫の展覧会が、地元岩内の『木田金次郎美術館』で行われていることを知っ
た。
その中で紹介されていた、木田金次郎氏の絵。
「岩内港」 (岩内の対岸から見える)「輝く羊蹄山」
「ホリカップの川畔」 「ビンノ岬」
これらの絵と木田金次郎の名まえに接し、私は以前、彼の絵を見て心惹かれたことを思い出した。
確か2年くらい前のEテレに、『ミューズの微笑み』という、日本各地の『個性的な美術館』を紹介する番組があった。
そのシリーズの一つとして紹介されたのが、≪木田金次郎美術館≫だった。
私は当時その番組を見て、木田金次郎という画家とその絵に強い関心を持ったのを覚えている。
なので、この番組の録画は、きっと残しているはず…。
そこでハードディスクを捜してみたら、予想どおり、≪木田金次郎美術館≫の録画が出てきた。
≪木田金次郎美術館≫は、後世の岩内の若者たちが、故郷の画家である金次郎を誇りとして、自分たちで資金を集めて建てた美術館なのだそうだ。
玄関はドーム状になっていて、中に入ると、頭上にポッカリと青空が現われる。
とってもステキな美術館! できる事なら、行ってみたいなあ!!
ところで、岩内というのは、北海道南西部、日本海に面した漁師町だ。
日本海の荒波が岩にぶち当たり、白波が上がる。
そんな中で日々漁が行われている。
木田金次郎は、そんな岩内の、裕福な網元の子として生まれた。
彼は成績も優秀な、聡明な子どもだったそうだ。
成長した彼は、学問を修めるため、岩内を離れ東京に出る。
その東京で、彼は素晴らしい絵の数々に出会い、絵の世界に惹きつけられていく。
そして終には、自身、画家になる決心を固めた。
彼の東京での絵の修業は、初め、順調だった。
しかし、その修行のただ中で、ニシンの不漁のため、父親が網元を廃業しなければならなくなる。
当然、仕送りは断たれ、彼は東京での絵の修業を止めて、帰郷を余儀なくされることになった。
失意の中、彼は帰郷の途中で札幌に立ち寄り、一面識もなかった有島武郎を訪ねて、苦しい胸の内を吐露して、有島の指南を仰ぐ。
有島は、彼の絵を見その志を聞いて、彼に、故郷に腰を据えてじっくり絵に取り組むことを勧め、彼を励ました。
有島の励ましを受けた木田は、故郷で漁師として働きながら、絵を描くことにも没頭していった。
その木田の姿をモデルにして有島武郎氏が書いたのが、かの有名な≪生まれいづる悩み≫なのだそうだ。
10年ぐらいして木田は、漁師を止め、絵一本で生きていくことを決める。
もちろん、生活は極貧状態だった。
でもそんな中でも彼は自然と向き合い、描くべき絵を、自分の『感力』で追求し、掴み取っていく。
その頃の絵の中から、3点。
「残雪の岩内山」 (1933年) 「海」 (1936年)
「茶津の断崖」 (1958年)
極貧の中で絵を描いてきた金次郎を、更なる悲劇が襲う。
それは、1954年の“岩内の大火”だった。
街は焼き尽くされ、作品の大半を失った金次郎は、しばらく呆然自失だったそうだ。
しかし彼は、すぐに立ち上がり、「大火直後の岩内港」(1954年)を描かれる。 (その絵の太陽は、さすがに赤くは描けず、緑色だった。)
そして、1958年に描かれた「波」(写真・上)と、1960年に描かれた「夏の岩内港」(下)。
波の線が生き生きして、港にはずいぶん活気が戻っている!
その後彼は、岩内の海岸に立つ一つの岩に、強く魅せられていく。
その岩の名は、『モイワ(茂岩)』。 (モイワは、アイヌ語で「小さな山」という意味だそうだ。)
そして、そのモイワを描いた3枚の絵は、故郷の自然に向き合い、それを丸ごと掴み取ろうとした木田の、集大成の絵ともなった。
「春のモイワ」 (1961年)
「秋のモイワ」 (1961年)
「雪の茂岩」 (1961年)