のんスケの‥行き当たりバッタリ!

ぐうたら人生を送ってきた私が、この歳になって感じる、喜び、幸せ、感動、時に怒りなどを、自由に書いていきたいと思います。

早朝からの衝撃!(後藤健二さん、ついに殺害さる!)

2015-02-01 15:31:18 | 日記

 今朝は早くに目が覚めて、テレビを見ていた。

 すると番組が途中で途切れて、急に画面が変わった。

 私は瞬間的に嫌な予感に襲われた。

 そして、その予感がすぐに的中していることを知った。

 

 あ~あ!やっぱりだめだったか‥。

 私は後藤健二さんのことはそう詳しく知らなかったけれど、テレビの報道によると、貧困や戦いの中で苦しんでいる弱者の立場に立って、様々な活動

をされてきた、誠実なジャーナリストのようだ。

 

 なので、日本国民のみならず、イスラムの方たち、全世界の人たちが、後藤さんの解放を心から願っていた。

 なのに…。

 

 私は、後藤さんご本人の無念や、ご家族の言葉では表現できないほどの悲しみや、後藤さんを頼りにしていた多くの人たちの深い嘆きと悲しみを

思って、朝から胸つぶれる思いだった。

 

 後藤さんが拘束されたことが公けになったのは、1月下旬になってから。

 でも、ご家族のもとには昨年11月頃から脅迫状などが来ていて、それは政府にも伝えてあったという。

 なのに、その間、政府はどんな手を打ってきたのだろう?

 加えて、この時期に、安倍首相がわざわざ中東でハデに行った「イスラム国」攻撃の演説が、今度の殺害の引き金になったことは、否めない。

 

 更に、後藤さんの問題が暗礁に乗り上げているこの時期に、安倍首相が又々国会で行った、「国民を救出するための自衛隊出動」を巡る発言は、

「イスラム国」をいっそう刺激することになりはしないか?

 私は安倍首相の発言を聞きながら、危惧の念を禁じ得なかった。

 その危惧が当たったかどうかは分からないけれど、今朝、後藤さんの殺害がネットを通じて流された。

 

 安倍首相の最近の暴走ぶりは、本当に目に余るものがある。

 安倍首相の言うとおりにしていれば、日本はこれから更に危険な道に足を踏み出すことになる。

 彼は、「国民を救出するために自衛隊出動を!」と言う。

 国民を救出するために自衛隊を出動させる! それは、とりもなおさず武力によって問題を解決しようとするものだ。

 それは憎しみの連鎖を断ち、中東の人たちに真の笑顔と幸せが戻ることを願って、危険を冒して支援活動をしてこられた後藤さんの願いにも反する

ものではないだろうか?

 それに、自衛隊だって国民だ。

 国外に出動した自衛隊が、無傷で帰って来られるとは、とても思えない。

 安倍首相は、ただ自分の思いを遂行するために、突っ走っているように思うのは、私だけだろうか?

 

 

 


初めて知った、アウシュビッツ【囚人オーケストラ】の存在

2015-02-01 13:30:44 | 日記

 昨日午後のNHKテレビで、2004年放送の番組(途中から見たので、題名が分からない)を、再度放映していた。

 途中からだったが、私はその画面を見たときから、一瞬たりともその画面から目が離せなくなった。

 それは、あのアウシュビッツ強制収容所で、【囚人オーケストラ】の一員(ヴァイオリン奏者)としての任務を与えられたゾヒィア・チコビアクさん」の、

戦中・戦後の言い知れぬ悩み・苦しみを追ったドキュメントだった。

                       

                        【囚人オーケストラ】時代の苦しみを語る、ゾヒィアさん

 

 私は、ナチスによるユダヤ人迫害・虐殺のことは、かなりよく知ってる方だと思っていた。

 でも、収容所内に【囚人オーケストラ】なるものが組織されていたことは、今回初めて知った。

 そして【囚人オーケストラ】は、(もちろん!)他の囚人たちを慰めるためなんかでなく、彼らを精神的に更に痛めつけるためのものだったのだ。

 

 

 当時ナチスは、囚人たちの一部を組織して【特別作業班】なるものもつくっていた。

 【特別作業班】の任務は‥?

 それは、囚人たちの大量殺戮の中核であったガス室送りを、直接行わせるものだった。

 特別作業班に選ばれた囚人たちの中には、自らの肉親(親や子・兄弟姉妹)を自身の手で、ガス室に送らざるを得ない人もいた。

 

                     収容所の周りを厳重に取り囲む鉄条網(上2枚)と、ガス室(一番下)

                    

                      

                     

 

 

 【囚人オーケストラ】は、弱った体で強制労働に向かい、更に疲れ切って強制労働から帰ってくる囚人たち(中には歩けない人もいた)に向かって、い

かにも陽気な行進曲などを演奏させられた。

 それらの曲は、強制労働をさせられる囚人たちの心をいたぶるように鳴り響き、彼らの傷ついた心を更に痛めつけた。

 囚人のガス室送りが行われるときも、囚人オーケストラは動員され、同じように明るく楽しい曲を演奏させられた。

  

 囚人オーケストラの演奏は、それを聞かされる囚人たちだけでなく、演奏する人たちの心も同じように苦しめた。

 囚人であるオーケストラ団員の自分が、仲間である同じ囚人たちを苦しめる演奏をさせられるという…事実。

 それも、自分が愛する“音楽”を使って!

 

 ゾヒィアさんの悩み・苦しみも、深かった。

 彼女は一時、オーケストラを辞めたいと申し出られる。

 それに対しての幹部の答えは‥「オーケストラか、さもなくば懲罰労働か!」 だった。

 彼女は、オーケストラに残ることを選ばれた。

 そのときの心境を、彼女はこう語られている。

 「私はあの時敗北したのです。時間の掛かる死に対する恐怖心の方が、私のなかで勝った…」 と。

 彼女の決定を誰が非難できようか?

 

 

 1945年5月、ナチスは降伏し、ゾヒィアさんたち囚人は解放された。

 しかし囚人だった人たちの苦しみが、これで終わったわけではない。

 ゾヒィアさんは、体力を回復するために数か月入院されるが、退院された後も、まともに仕事はできなかった。

 職場に行っても、軍服を見る度に貧血を起こし、叫び声を上げて倒れ、家に帰らされたからだ。

 人と親しい関係を結ぶこともできなかった。

 

 音楽も聴けなくなった。

 当時同居されてたお母さんからたまに演奏を頼まれると、彼女は1週間くらい発熱した。

 解放後10年くらい経って、彼女は意を決してコンサートに行かれた。

 でもそのコンサートで、“蝶々夫人”のアリア(それは収容所で演奏させられたものだった)を聴くと、気を失い意識が戻らず、救急車で運ばれた。

 彼女は自分を制御できなくなり、その時は、森や林に逃げ込み、昼も夜も歩き続けられたそうだ。

 

 

 転機が訪れたのは、1958年。 戦後13年が経った、35歳の夏だった。

 悩み抜いたあげく、彼女は再びアウシュビッツを訪ねる決意をされる。

 彼女は、亡くなった人に謝罪したかったのだと言われる。

                      

 

 

 

 彼女は言われる。 「アウシュビッツとの再会は、強烈でした。」と。

                         

       

 

 帰ってから数週間は、熱が続いたそうだ。

 

 しかし、アウシュビッツの訪問を続けられるうちに、彼女の心に“奇妙な安らぎ”が広がるようになった。

 体調がいい時は、音楽との絆を取り戻そうと、少しずつラジオが聴けるようにもなってきた。

 そして、時には楽しんだり、感銘を受けることもできるようになった。

 

 そして彼女は言われる。

  「どんなに不当な死でも、全くの無実の死でも、その人生には、きっと何かの意味があるはずです。

   いつかその意味が私にも理解できる日が来る、そう強く信じています。信じたいのです!」

 

 最後に、彼女の力強い言葉が書かれた幾枚かの写真を載せて、このブログを閉じます。

                     

 

     

 

 

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