のんスケの‥行き当たりバッタリ!

ぐうたら人生を送ってきた私が、この歳になって感じる、喜び、幸せ、感動、時に怒りなどを、自由に書いていきたいと思います。

2人の女性の素晴らしい生き様(死に様) 2)≪新津春子さん≫

2015-02-22 16:19:50 | 日記

 私に感動を与えたもう一人の女性は、羽田空港の清掃を担当する≪新津(にいつ)春子さん≫(44歳)。

                     

 

 新津春子さんのことは、最近のNHK番組・「プロフェッショナル 仕事の流儀 “清掃のスペシャリスト”」で、初めて知った。

 彼女は、≪世界一清潔な空港≫として、ここ2年間グランプリに輝いている『羽田空港』で、300人の清掃スタッフを束ねるリー

ダーの人なのだそうだ。

 

 まず私は、早朝に出勤される彼女の姿を見て、驚いた。

 駅に着かれた彼女は、横のエスカレーターには目もくれず、50段以上の階段を、笑顔で勢いよく上がって行かれたのだ。

 そして職場に着くと、(カメラを気にして恥ずかしそうにしながら)ダンベルで体操を始められた。

 (彼女は、夜と昼にも、同じように筋トレをされているそうだ。)

 「仕事をちゃんとするためには、体力が無くっちゃ!」ですって。

        

 

 ここでもう、ナマケモノの私は、「参りました!」って感じ‥。

 

 彼女は若いころ、「全国ビルクリーニング技能競技会」で、最年少での≪グランプリ≫を獲得された。

                      

 

 

 そして今や、世界一清潔な羽田空港の、清掃スタッフの中心人物でもあるのだ。

 

 しかし、彼女がこれまでになられるのには、大きな苦難があった。

 彼女の父は、中国残留孤児だった。

 その父が中国人の母と結婚して生まれたのが、彼女だ。

 中国での生活が苦しかった彼女の一家は、彼女が17歳のとき、仕事を求めて日本に来られる。

                    

                             (17歳の新津さん)

 

 しかし日本に来ても、日本語のできない両親には仕事が見つからず、生活は苦しいまま。

 その上彼女は、中国では周囲から「日本に帰れ!」と言われ、日本に来たら来たで、友だちから「中国に帰れ!」と罵られた。

 彼女は、自分の存在の意味が分からず、苦しく辛かったと述懐される。

 

 それでも彼女は、家族の生活を支えるために、初めはアルバイトで、夜間の清掃の仕事を始められる。

 そんな中で、次第に彼女は、清掃の仕事に面白さを感じられるようになる。

 頭も良く努力家でもあった彼女は、清掃に関する知識も技術も、メキメキと上達していかれる。

 それが、「ビルクリーニング技能競技会」での≪グランプリ≫にもつながったのだ。

 

 でもこの番組を見て、私が素晴らしいと思ったのは、彼女が技術的に優れた清掃のエキスパートであることだけではない。

 彼女が、空港に来るお客さんみんなが、健康で気持ち良く、幸せな気持ちになれることを願って、仕事をされていることだ。

                  

 

      

 

 

 私は、汚れに対する時の、彼女の眼の真剣さと輝きに、心を奪われた。

                     

 

 

 月に何度かある深夜勤務のとき。

 彼女は、日中人がいるとできない所の掃除を、徹底的にされる。

 汚れが落ちにくい所は、どんな薬剤・どんな道具を使ってやれば綺麗になるか、徹底的に考え、試みられる。

     

 

 

 そして勤務終了の朝までに、なんとか汚れを落とすことができたときの、彼女の清々しい笑顔が、とってもステキだ。

                        

 

 彼女は言われる。

 「清掃には技術はもちろん必要だけど、そこに≪優しさ≫がなければダメ!」

 「≪心を込める≫ことが大切!」

 そして私が、彼女を一番素晴らしいと思ったのは、彼女の下の言葉に代表される、彼女の生きる姿勢だ。

 

 彼女は言われる。

 『誰がここを綺麗にしたかは問題じゃない。』

 『皆さんが綺麗な所で幸せな気持ちになってもらえることが、何よりも大切!』

 

 日本に来ても差別で苦しみ、ある時は、周囲も自分も呪われたことのある彼女。

 その彼女が、仕事を通じて獲得された、人への優しさに満ちた、無欲の心!

 私は、彼女の姿に心から感動し、彼女を深く尊敬した。

 

 夜勤を終えて職場をあとにされる彼女に、番組制作の方が、「これから家に帰られて睡眠ですか?」と尋ねた。

 それに対して、彼女は笑顔で答えられた。

 「家の掃除がちょっとできてないから、1時間くらい掃除して、それから寝ます。」と。

                   

 

 あ~あ、マイッタ、マイッタ!!

 何にも仕事をしていなくても、家の掃除がまともにできない、この私‥。

 彼女の爪の垢でも煎じて飲まなければいけないナと思いつつ、私のズボラと、彼女の素晴らしさに感動する心とは、また別の次元

のこととすぐに思い直して、自分を甘やかす私でした‥。

 

 今日も彼女は、みんなが幸せな気持ちになることを願って、無欲で掃除を続けられていることだろう。

 そんな彼女がこれからも幸せであることを、いや、これからもっともっと幸せになられることを、私は祈ってやまない。

 

                  

 

 

 


2人の女性の素晴らしい生き様(死に様) 1)≪黒田裕子さん≫

2015-02-22 13:12:42 | 日記

 比較的最近見た2つのテレビ番組で、私は、2人の女性の生き様(死に様)に、強い衝撃と感動を受けた。

 

 一人目は、阪神大震災から東日本大震災にかけて、自分の全生活を被災者支援に捧げ続け、昨年秋に亡くなられた≪黒田裕子さん≫。

 黒田裕子さんの活動ぶりは、私もそれまで何度か、テレビ画面で拝見してきていた。

 彼女は、もとは関西の病院の看護師で、初めのうちは、仕事をしながら被災者の支援活動を精力的にされていた。

 でも途中からはその仕事も辞めて、支援活動に、ご自分の全生活を捧げてこられた。

 私はテレビ画面でその姿を拝見するたびに、「すごい人がおられるんだなあ!」と、ただただ感服するのみだった。

 

                   (仮設住宅を訪れ、被災者と語り合われる黒田さん)

       

 

 

 その黒田さんが、ある時期から、テレビの画面で見ていても、ずいぶん痩せてこられているような気がして、心配していた。

 そして、昨年の秋、私はテレビのニュースで、黒田さんの死去の報に接した。

 “やっぱり、彼女は病気をおして活動を続けておられたんだ‥。そして、遂に命尽きられたんだ‥。”

 私はそう思い、彼女の死を悼むとともに、彼女を失った被災者の悲しみと苦悩を思った。

 

 その彼女の最期の姿が、1月末のNHKスペシャル≪傷ついた人々に寄り添って~黒田裕子・最期の日々≫で、明らかにされた。

 人間の最期の姿を映像にすることは、普通は何か憚られる感じがするけれど、それは黒田さんの要望でもあったようだ。

 被災者の死(なかんずく孤独死)と向き合い、人間の幸せな死を求めて活動してこられた彼女は、自分の死を通しても、死のあり

ようを訴えようとなさったのかも知れない。

 

 彼女は、自分の命がもう幾ばくも無いことを悟ったとき、故郷の島根・出雲に帰りたいと言われる。

 私は驚いた!

 彼女が私と同じ出身県であることにも驚いたが、阪神を中心に活動されてきた彼女が、自分の死に場所を故郷に求められたこと

が、意外でもあったのだ。

 主治医は、今まで自分のことは一切顧みないで活動してきた黒田さんの“最期の我が儘”を叶えてあげようと、決断される。

 

 いよいよ病院をあとにすることが決まったあと、兵庫県の井戸知事が、病床の彼女のもとを訪れられた。

 彼女は、(ある意味、活動をともにしてきた)井戸知事に、単なる別れだけではなく、自分の願いをしっかりと伝えられた。

 「これからの震災に備えて、福祉避難所は、ひとくくりにしないで、いろんな人の症状に合わせてきめ細かいものにしてほしい!」

 「本当に困っている人が、困ることのないように!」

 「最後の一人まで見捨ててはいけない!みんな同じ人間なんだから。」‥と。

 

 ほとんど肉のついていない、息も絶え絶えな体から、彼女は力強くこのように訴えられたのだ。

       

 

 

 9月18日、黒田さんは、みんなに見送られて病院をあとにし、空港に向かわれる。

 空港に向かう車の中から、痩せた手を高々と上げて、見送りの人たちに応えられる黒田さんの姿は、痛ましいというより、神々しく

さえあった。

     

 

 

 彼女は、ふるさとに近い「島根大学医学部付属病院」に、無事到着される。

 そこでは、妹さんご夫婦などが、彼女を待ち受けられていた。

 不思議なことに、ふるさとに着いたときから、彼女の激しい痛みは、嘘のように和らいだそうだ。

 彼女は、妹さんが用意された、(それまでの病院食ではない)“ふるさとの料理”を、美味しそうに食べられた。

 「これ、鯛めし。」 「最後の晩餐だね。」などと言いながら。

                   

 

 そして、体調を見計らって、彼女は病院の屋上にも、連れて行ってもらわれる。

 屋上からふるさとの景色を眺められたときの、彼女の幸せそうな表情が忘れられない。

                

 

 

 ふるさとで幸せな最期のときを過ごされた彼女は、24日午前0時に、静かに旅立たれた。(享年、73歳)

 

 最後に、彼女が通われていた気仙沼の仮設住宅につくられた祭壇と、彼女が被災者の女性に送られた葉書を載せます。

                  

                      

                          “人生の旅の荷物は、夢ひとつ”(黒田裕子)