のんスケの‥行き当たりバッタリ!

ぐうたら人生を送ってきた私が、この歳になって感じる、喜び、幸せ、感動、時に怒りなどを、自由に書いていきたいと思います。

私たちは一体、何をしたらいいんだろう‥!?

2015-03-09 16:36:54 | 日記

 あの衝撃的な東日本大震災の発生から、もうすぐ4年になる。

 先週土曜日(7日)の≪NHKスペシャル≫も、このことを取り上げていた。

                  

 

 

 今回の番組は、「それでも村で生きる」と題して、避難地域の中で一番早く帰還された≪川内村≫の現状を、取り上げていた。

                                

                      

 

 

 川内村は、元来自然豊かな美しい村だった。

                  

                          川内村の秋の蕎麦畑 (川内村の名物は“蕎麦”だった)

 

                      

 

 

 しかし、全村が原発の30キロ圏内に位置し、避難を余儀なくされたのだ。

 ただ、比較的線量が低かった川内村は、1年後には20キロを超える地域、昨年秋には残りの地域の帰還が、実現する。

                       

 

 

 7日の≪スペシャル≫では、まず、去年の10月に帰還が実現した「毛戸(もうど)」地区のことが、取り上げられていた。

                       

 

 

 毛戸地区の住民は、もとは33世帯。 その中で昨年10月に帰還されたのは10世帯だった。

 10世帯の中でも、特に、復興に前向きな姿勢で取り組まれている、“秋元さんご夫妻”。

                   

 

 ご夫妻は震災以前から、定年後は、(お客さんが自然の中での暮らしを楽しめるような)“民宿”を開くことを計画されていた。

 そのために、家は震災前に、すでに改装済みだった。

                  

                    

 

 お二人は、少しでも早い民宿の開業を夢みて、汗を流される。

 

 

 


 

 

 次に番組が取り上げたのは、すでに2012年に帰還されていた“加藤さんご夫妻”。

 

                     

 

 お二人は、昔から苦労を重ねてこの地を開拓され、立派な蕎麦畑を作り上げてこられた。

 川内村の蕎麦は、近隣で美味しいと評判だった。

 加藤さんご夫妻が村に帰って来られたのも、もう一度蕎麦畑を耕し、美味しい蕎麦を作りたいという願いからだった。

 

 お二人は、かつての蕎麦畑を、近所の方と一緒に見に行かれる。

 しかし、お二人の目の前に現れたのは、なんとも情けない無惨な光景だった。

 畑一面に、放射能の廃棄物を入れた袋が、敷き詰められていたのだ。

 

                        ~かつての蕎麦畑と、蕎麦畑の今の状態~

                    

                      

 

       (上の写真は袋が雪を被っていて、その無惨さが十分に伝わらないので、雪の無い写真も下に。)

                   

 

 ご夫妻は、その情景を目にして深いため息をつき、「帰るしかないな‥。」とボソッとつぶやかれる。

 

 


 

 

  民宿の開業を夢みて前向きに暮らしてこられた秋元さんご夫妻。

 蕎麦畑の現状にショックを受けられた加藤さんご夫妻‥。

 

 その両者の夢を(さらに)打ち砕く政策転換が、今年の1月16日に望月環境相から発表された。

                    

 

 

 当初の予定では、汚染物質を入れた袋は、この1月に、村から撤去される予定だった。

 それが、事実上無期限に延期されたのだ。

 

 周囲に汚染物質を入れた袋が山積みになっている民宿に、やって来るお客はいないだろう‥。

  秋元さんご夫妻の民宿開業の夢は、さらに遠のいた。

 高齢の加藤さんご夫妻にとって、この知らせは、再び蕎麦畑を耕したいという願いを、絶望的なまでに打ち砕くものだった。

 2組のご夫妻(だけではないが‥)の絶望は、想像に難くない。

 

                   ~この知らせを聞いて、秋元さんがつぶやかれたことば~

                       

 

 

 そして、今年の節句には久しぶりに帰ってくるだろう孫のために、いそいそとお雛様を飾られた秋元さんの奥様も‥‥

                    

 

 やっぱり危険だから帰れないというお孫さんの手紙を読んで、深い悲しみに沈まれる。

 飾られたお雛様まで、なんだか悲しそうだ。

      

 

 

 悲嘆に暮れながらも、ご夫妻は手を取り合って、裏の山に登っていかれる。

 その山の上で、夫妻が掻き分けられた雪の下から、姿を現した“福寿草”の花。

                       

                     

 

 ご夫妻も、私たちも、この福寿草に願いを託すしかないのだろうか?

 

 


 

 

  東日本大震災のもたらした被害に心を痛めつつ、今まで何もしてこなかった自分を振り返る。

 そして考える。 “一体何が私にできるのだろう?”と。 でも、答えは出ない。

 震災のことを忘れたことはないけれど、それだけでは何もしていないのと同じだ。

 

 答えの出ないまま、私は昨日(8日)行われた、『原発反対』の集会に参加した。

 なんか、自己満足のような、自己欺瞞のような気持ちを抱きつつ‥。

                    

 

 それでもその集会で、台湾で若い人たちを中心に行われている『原発反対のひまわり運動』の事を知ることができて、嬉しかった。

 そして、元気な子どもたちが、“ゲンパツ・イラナイ!”と声高らかに叫びながらかつぐ≪神輿≫に、勇気づけられた。

                   

 

 私の鬱屈した気持ちは解消したわけではないけれど、これからも悩みつつ、原発の問題・平和の問題を考え続けていこうとは思っ

ている。