安倍政権が推し進める「安保法案」が、衆議院で強行採決され、参議院に送られた。
国民の間からは、その暴挙に対して、幅広い反対運動が起こっている。
そんな中、安倍首相の側近・磯崎補佐官から、法を無視するトンデモナイ発言が飛び出した。
あまりの暴言に参議院の特別委員会で、磯崎補佐官の参考人質疑が行われた。
しかし、磯崎補佐官の弁明と、野党を代表して民主党だけから質問が行われただけで、質疑は終わってしまった。
(もちろん、この問題は、これで終わらせてはいけないと思うが…。)
その質疑の直後に特別委員会の委員長である鴻池氏から、下の写真のような発言があった。
普段は穏やかそうに見える鴻池氏が、強い口調で突然発せられた上の言葉。
私はその言葉に、何が何でも法案を押し通そうとする現政権の横暴に、鴻池氏の、参議院の政治家としての誇りと、それ故の強い
怒りが込められていることを感じて、氏に強く共感した。
そんな中、ヒロシマとナガサキに、70年目の原爆投下の日がやって来た。
ヒロシマに原爆が投下された8月6日は、(前のブログにも書いたけれど)100年の歴史をもつ高校野球の開会式の日でもあった。
その開会式の宣誓で、鳥羽高校の主将が言ったことばは、私の胸を強く打った。
(これも既に載せた写真ですが、もう一度載せることをお許しください。)
一方プロ野球の広島カープは、この日、『PEACE 86』の背番号を全員が掲げて、試合に臨んだ。
原爆で壊滅状態だった広島で、市民に一筋の希望を与えたのは、何にも無くなった広島の街をひたすら走る『市電』と、『広島カー
プ』の存在だったのだそうだ。
そういう広島市民の平和への願いを、自らの想いと重ね合わせた、『PEACE 86』の背番号!
このユニホームを見て、私は、又々胸が熱くなった。
(残念ながら、この日の試合にカープは勝つことができなかった。緒方監督は、しきりに「申し訳ない」と言われていたが…。)
話が前後するけれど、朝の「平和式典」の挨拶で、安倍首相は(かつては触れていた)『非核三原則』に、今年は言及しなかった。
安倍首相は、「非核三原則は当然のことなので言わなかっただけ」と弁明したが、果たしてそうだろうか?
広島の人たちの反応は…?
その日の夜に行われた、安倍首相と被爆者団体協議会の代表との話し合いの中で、代表の方から、次のような強い要求が出され
たのは、当然だと思う。
そして、8月9日。
平和祈念式典での田上長崎市長の『平和宣言』は、簡潔な言葉ながら、心打つ内容のものだった。
(次に、田上市長の宣言の中から、特に心に響いた部分を引用します。)
「日本国憲法における平和の理念は、こうした辛く厳しい経験と戦争の中から生まれました。~(中略)~長崎にとっても日本にとって
も、戦争をしないという平和の理念は、永久に変えてはならない原点です。」
「日本政府に訴えます。
国の安全保障は、核抑止力に頼らない方法を検討してください。 未来を見据え、“核の傘”から“非核の傘”への転換について、
ぜひ検討してください。」
「現在国会では、国の安全保障のあり方を決める法案の審議が行われています。
70年前に心に刻んだ誓いが、日本国憲法の平和の理念が、今揺らいでいるのではないかという、不安と懸念が広がっています。
政府と国会には、この不安と懸念の声に耳を傾け、英知を結集し、慎重で真摯な論議を行うことを求めます。」
田上市長の宣言には、随所で、参列者の中から大きな拍手が沸き起こった。
(それに対して、今回は「非核三原則」にも触れた安倍首相の挨拶だったが、参加者からは不信の言葉が投げかけられていた。)
続いて、被爆者代表の谷口さんが挨拶された。
谷口さんは16歳で被爆され、左手と背中に酷い火傷を負われた。
3年7ヶ月の入院生活のうち、1年9ヶ月は、背中一面の大火傷のため、うつ伏せのままで死の淵をさまよわれたという。
今でも、胸は深くえぐり取られ、肋骨の間から、心臓が動いているのが見えるという。(肺活量は人の半分ちかくしかないそうだ。)
谷口さんは、そんな恵まれない体調の中でも、戦後一貫して、核廃絶と平和を求めて活動されてきた。
その谷口さんが、挨拶の最後に言われた次の言葉は、参列者の強い共感と、絶大な拍手を呼んだ。
『今政府が進めようとしている戦争につながる安保法案は、被爆者をはじめ平和を願う多くの人々が積み上げてきた、核兵器廃絶の
運動と思いを根底から覆そうとするものであり、許すことはできません。』
※この問題については、まだまだ沢山書きたいこと(戦後70年の総理談話など)があるのですが、心身共に疲れてきたので、今日は
ここで置きます。
ただ、安倍首相の戦後70年談話について感想を聞かれた50年談話の村山さんが、あっさり言われた次の言葉が面白かったので、
載せておきます。