フィンセント・ファン・ゴッホが、死ぬ半年前に描いた絵、「花咲くアーモンドの枝」
この絵を、私は知ってはいた。
でも、ゴッホにしてはエライ優しい感じの絵やなあ‥と思ったくらいで、そんなに関心を持たないまま過ごしてきた。
今年1月6日の(「日曜美術館」の中の)「世界美術館紀行」を見て、この絵が、ゴッホとその家族をつなぐ愛に満ちた絵だったことを初めて知った。
ゴッホは、彼が命がけで取り組んだ絵画の世界でも、結局、世間から認められないまま、最後は心を病み、精神病院で自ら命を絶った。
わずか、37歳の生涯だった。
彼が10年の画家生活の中で描いた絵は、1600点以上。
その中で、彼の生前に売れた絵は、たったの一枚だった。
彼の思い入れの強い激しい気性も災いして、彼は世間からも親からも疎まれた。
そんなゴッホを理解し、その才能を信じて、心から応援したのは、ただ一人‥弟のテオだった。
(ゴッホの唯一の理解者、弟のテオ・ファン・ゴッホ)
ゴッホとテオとの間で交わされた手紙は、「ゴッホの手紙」として出版され、よく知られている。(私は未だに読んでいないけど‥)
テオは、長年心を交わしてきたヨハンナという女性と結婚する。
ヨハンナもテオと同じく、ゴッホの良き理解者だった。
(ヨハンナとテオ)
そのヨハンナからゴッホに、ある日うれしい便りが届く。
それは、自分たち夫婦に子どもが生まれることを知らせる便りだった。
そしてその便りの中で彼女は、生まれる子は男の子に違いないから、その時はその子に、「フィンセント」(ゴッホの名前)と名付けると言うのだった。
愛する弟夫婦に子供ができることを知ったゴッホの喜びは、計り知れないほど大きかった。
彼は手紙の中で、「ブラボー!」と叫び、弟夫婦を祝福した。
と同時に、彼は、生まれてきた子どもの寝室に飾るようにと、心を込めて絵を描いた。
そうして出来上がった絵が、「花咲くアーモンドの枝」だったのだ。
この時期のゴッホの絵は、うねるような激しい筆致のものが多い。
それに比べて、この絵はむしろ、きれいさ・優しさを感じさせる。
それはこの絵が、愛する弟夫婦と生まれてくる子どもへの、ゴッホの深い愛情から生まれたからだと思う。
しかし、この絵を描いて半年後に、ゴッホは自ら命を絶ってしまう。
弟夫婦に生まれたのは、予想どおり男の子だった。
子供は予定どおり「フィンセント」と名付けられ、子どもの寝室には、「花咲くアーモンドの枝」が掛けられた。
しかし悲しいことに、弟テオが、ゴッホの死後半年後に、病気で帰らぬ人になってしまったのだ。
(仲良く並んで葬られている、フィンセントとテオ)
夫を失って悲しみに暮れるヨハンナだったが、でも悲しみに暮れているだけではなかった。
ヨハンナは、夫があれだけ愛し、自らも尊敬していたゴッホのことを、そのまま埋もれさせるのは耐え難かった。
夫とゴッホの間で交わされた手紙を読み返し、ゴッホの生き様に共感した彼女は、書簡集を刊行すると共に、ゴッホの展覧会を開いた。
それによって、ゴッホの再評価への道が、拓かれたのだった。
ヨハンナの死後、後を受け継いだのが、テオ&ヨハンナ夫婦の子ども、(ゴッホと同じ名前を与えられた)2代目フィンセント・ファン・ゴッホだった。
彼は、長い時間を掛けてゴッホの作品を整理し、ゴッホの死後83年目に、やっと「ファン・ゴッホ美術館」を建設した。
「ファン・ゴッホ美術館」の現在の館長は、ゴッホから数えて4代目の、(やはり)フィンセント・ファン・ゴッホ氏。
彼は、「花咲くアーモンドの枝」の絵は、ゴッホ家にとって、特別な絵だと言われる。
(「花咲くアーモンドの枝」を感慨深げにながめられる、4代目フィンセント・ファン・ゴッホ氏)
私は今回のテレビ番組で、「花咲くアーモンドの枝」の絵が描かれた由来を、初めて知った。
そして、ゴッホの絵が、弟夫婦とその子孫によって世に問い直され、新たな評価を受けるようになったことを知って、本当にうれしかった。
同時に、「フィンセント・ファン・ゴッホ」の名が今でも受け継がれていることは、私にとって、大きな驚きであり、喜びでもあった。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます