のんスケの‥行き当たりバッタリ!

ぐうたら人生を送ってきた私が、この歳になって感じる、喜び、幸せ、感動、時に怒りなどを、自由に書いていきたいと思います。

昨日の長居公園と植物園 (1)

2015-02-08 17:13:14 | 日記

 昨日(2月7日・土)はお天気が良かったので、どこかへ出掛けたくなった。

 パソコンでいろいろ調べてみたけれど、どこもまだ本格的な花の季節ではなさそう…。

 そこで、近場で、何かの花が少しは咲いているだろう『長居植物園』に、出掛けることにした。

 

 

 長居公園の入り口付近に、「友情の像」がある。

 この像は鳩のお好みらしく、少女の頭や腕には、いつも数羽の鳩が止まっている。

                  

                     

 

 

 

 公園に入ってから植物園までは、1キロ弱の距離を歩かなければならない。

 でも行きは元気で、そのくらいの距離は、何ていうことはない。

 植物園に到着した。

 昨日の植物園のエントランスは、木々が葉を全部落としていて、ちょっと寂しげだった。

 エントランスの奥の木に人がよじ登って、最近まで付けてあったらしい、電飾装置を外しておられた。

           

 

 

 

 サボテンのイルミネーションは、まだ撤去されずに、草の上にそのまま置かれていた。

    

 

 

 

 エントランスのすぐ傍に、まだ電飾装置は取り付けられたままの大池が広がっている。

                  

 

 

 

 大池の蓮はすっかり枯れ色だ。

 そして、枯れた蓮の茎や花が、水面に面白い模様を作っている。

           

 

               

 

 

 遊歩道の脇に植えられている水仙は、まだ花数が少なかった。

      

 

 

 

 自然史博物館の前の花壇のハート型の花飾りを、ちょっとアップで撮ってみた。

      

 

 

 

 ツバキ園に入る。

 ツバキ園では、早咲きの赤いカンツバキが盛りだった。

 ツバキの木の根元に坐って、写生にいそしむ男性もおられた。

                

          

 

                    

 

                 

 


中津界隈の散歩

2015-02-06 18:13:34 | 日記

   昨日は一日中、家にいた。

 狭い部屋にすっこんでいると体も心も、何だか萎縮して固まってしまう感じ…。

 そこで、夕方になって、中津の街を歩いてみることにした。

 

 その散歩の途中、家々の庭に咲いていた花などを、勝手に撮らせていただいた。

                                

 

         

 

                                    

 

                                

                                       

           

 

 

 路地を歩いていると、2台の色の違う自転車が無造作に置かれていた。

 ちょっと興味を引かれて撮った。

                                   

 

 

 街をぐるっと回って、いつもの公園に着いた。

 昨日は木曜日で学校があるはずなのに、公園には子どもたちの姿があった。

 寒い中、子どもたちが元気に遊んでいる姿を見るのは、何だか嬉しい。

                              

 

 

 公園を横切って、市営住宅に向かった。

 次は、市営住宅のお庭の花など。

        

                                                                                                         (蠟梅)

 

                                              

                                     

      

          

 

               

 


『I am KENNJI』 と 『We are not ABE』

2015-02-06 17:30:59 | 日記

 赤い服を着せられ跪かされて、人質となった後藤健二さんがテレビ画面に映し出された。

 そして、「イスラム国」から命の期限を宣告された。

 その事実を知った全世界の人々は、強い衝撃を受けた。

 そして、多くの人々が、『I am KENNJI』のプラカードを掲げて、後藤さんの解放を要求し祈った。

                       

 

 後藤さんは、私利私欲を捨てて紛争地にとび込み、戦争やテロによって傷ついた人々に寄り添い、その悲惨な姿を世界に発信し続けてこられた。

 彼は、このような悲しい現実が一刻も早く無くなることを願い、可能な限りの援助をされてもきた。

 そんな彼の姿を知る人々は、彼を慕い、彼を頼り、そして深い尊敬の念を彼に抱いてきた。

 『I am KENNJI』は、そんな人々の中から生まれてきた言葉だ。

                      

 

 しかし、『I am KENNJI』のプラカードを掲げた(プラカードこそ掲げなかったけれど、思いは同じだった)多くの人々の祈りもむなしく、後藤さんは殺害

されてしまった。

 私は、「イスラム国」の残虐非道に激しい怒りを感じると同時に、後藤さんを救う手だてが本当に無かったのかを考えている。

 

 


 

 

 以前のブログにも書いたが、私は、この間の日本政府の対応に、少なからず疑問を感じている。

 なかんずく安倍首相が、日本人2人の拘束を知りながら、わざわざ中東で「イスラム国」を刺激するような演説を行ったことは、何とも解せない。

 2人の日本人人質の映像が流されたのが、その安倍首相の演説を受けてのことだったからだ。

 聞くところによると、今回の安倍首相の中東行きには、外務省も反対したという。

 その反対を押し切って中東に赴き、あの演説をした安倍首相の意図は、一体何だったのか!?

 そして後藤さんの殺害が分かった後は、「イスラム国」を激しくののしり(それはもっともだが)、彼らを必ず罰するといきまき、すぐに自衛隊の後方支

援を持ち出してきた。

 まるで、今回のことを予見していたかのような対応だ。

 安倍首相は、今回のことを利用して、平和憲法をなし崩しにし、武力行使に道を開こうとしているようにも見える。 

             

 

 

 そいう安倍首相の姿勢に強い危機感を感じている折りも折り、あるテレビが“私たちはこれから『We are not ABE』を、世界に向かって発信してい

かなければいけない”と、言っているのを聞いた。

 「そうだ、その通り!」 私は心の中で叫んだ。

 『We are not ABE』は、決して安倍首相に対する個人攻撃ではない。

 私たち日本国民が、今回安倍首相が打ち出している力による制裁の方向とは違う道を模索しようとしていることを、世界に向けて発信するための

キャッチコピーだ。

 それは、後藤さんが考え実行されてきた道でもある。

 

 私は今回のことが起こるまで、後藤さんのことを知らないできた。

 なので、『I am KENNJI』は、何とも口幅ったくて言えなかった。 

 でも、『We are not ABE』は、声を大にして言えるし、言わなければならないのではないかと、思っている。

 日本がかつてのように、二度と戦争をする国にならないために!        

 


≪中村鴈治郎襲名披露・二月大歌舞伎≫ (『市川猿之助』の演技に大感激!)

2015-02-03 18:30:11 | 日記

 2月1日から大阪・松竹座で、≪四代目中村鴈治郎襲名披露・二月大歌舞伎≫が始まった。

 私はKさんのお誘いを受けて、昨日(2日)の“夜の部”に行くことにした。

 “夜の部”の演目は、どれも有名で分かりやすいものばかりだし、夜の部には、以前から一度ぜひ見たいと思っていた『市川猿之助』が、2つの演目

に出演することになっていたから。

                   

 

 

 私は地下鉄難波から御堂筋に出て、松竹座に向かった。

 下の写真は、御堂筋から見た松竹座(手前は、料亭“はり重”)と、松竹座の正面(上の部分)。

        

 

 

 松竹座の入り口は、華やかなポスターや沢山のお客さんで、更に賑わいを増していた。

  

 

 

 今回の3つの演目の中では、『連獅子』と『義経千本桜』が、特に素晴らしかった。

 そしてその両方に出演した『市川猿之助』の演技には、目を見張るものがあった。

 『連獅子』では、親獅子を演じた『中村鴈治郎』・仔獅子を演じた『中村壱太郎』はもちろん素晴らしかったが、“僧蓮念”を演じた『猿之助』の演技(体

の動き)は、その中でも群を抜いていて、私は目を見張った。

 猿之助さんの動きには、伝統にのっとりながら、彼にしかできない独創性があり、歌舞伎の演技に新たな可能性を拓くものだ、と私は思った。

 それが更に如実に表われたのが、『義経千本桜』の“源九郎狐”での彼の演技だ。

 “源九郎狐”は、早変わりあり宙吊りありで、何とも華やかな(でも体力的には大変な)役柄だ。

 その上に、親を慕う源九郎狐の細やかな感情を、身体で表現しなければならない。

 以前『海老蔵』の源九郎狐を見て、その鮮やかな演技に、思わず「男前!」と叫んで興奮した私だったが、猿之助のそれは、海老蔵の鮮やかさに、更

に細やかさ・艶やかさをプラスして、本当に素晴らしかった。

 猿之助の動きの一つ一つに拍手が沸き起こった。

 私も拍手をしながら、心が熱くなった。

 最後の長い宙吊りの演技で、観客の興奮と拍手は最高潮に達した。

 そして、源九郎狐の姿がついに天井(天上)に消えた瞬間に、大量の紙吹雪が、観客の頭上に吹き流された。

 その紙吹雪で、この演目は、さらに素晴らしい大団円となった。

 

 私たちが興奮を沈めながら帰り支度を始めたとき、近くで、「記念に紙吹雪をもらって帰ろ。」という声がした。

 見ると、私たちの席からちょっと離れたところも、紙吹雪がまだ落ちている。

 そこで私も、座席の下に散り敷いている紙吹雪を何枚か拾って、感動的だった歌舞伎の記念に持って帰った。

 帰ってから早速、緑のクリアファイルの上に置いて写真を撮り、余韻に浸った。

                        

 

 ああ、今回の歌舞伎は、本当に楽しかった!

 大満足の一日でありました!

 

 

 

                       


もう、二月!(公園のささやかな花など)

2015-02-02 09:14:36 | 日記

 昨日・2月1日は、朝早く後藤さん殺害の報が入ってきて、胸つまる一日となった。

 午前中から午後にかけては、その事と他の事について、2つのブログを書いて過ごした。

 書き終わると、体がゴワゴワに固まっている。

 考えてみれば、ここ2・3日は、寒さが厳しいこともあって、家にすっこんでいる。

 これではいけないと思い、夕方(5時前くらい)になって、公園に行ってみることにした。

 (首にマフラーをぐるぐる巻きにし、毛糸の帽子もかぶって)

 

 公園は冬枯れていて、淋しい風景だった。

 その中で見つけた、わずかな彩り。

                 

 

        

 

 

 東の空には、もう上弦の月が出ている。

 ケヤキ並木では、夕暮れの空をバックに、ケヤキの裸木がクッキリとした模様を描いていた。

     

 

 

 花がほとんど無い中、多肉植物は元気に葉を開いていた。

                       

 

                   

 

 

 

 


早朝からの衝撃!(後藤健二さん、ついに殺害さる!)

2015-02-01 15:31:18 | 日記

 今朝は早くに目が覚めて、テレビを見ていた。

 すると番組が途中で途切れて、急に画面が変わった。

 私は瞬間的に嫌な予感に襲われた。

 そして、その予感がすぐに的中していることを知った。

 

 あ~あ!やっぱりだめだったか‥。

 私は後藤健二さんのことはそう詳しく知らなかったけれど、テレビの報道によると、貧困や戦いの中で苦しんでいる弱者の立場に立って、様々な活動

をされてきた、誠実なジャーナリストのようだ。

 

 なので、日本国民のみならず、イスラムの方たち、全世界の人たちが、後藤さんの解放を心から願っていた。

 なのに…。

 

 私は、後藤さんご本人の無念や、ご家族の言葉では表現できないほどの悲しみや、後藤さんを頼りにしていた多くの人たちの深い嘆きと悲しみを

思って、朝から胸つぶれる思いだった。

 

 後藤さんが拘束されたことが公けになったのは、1月下旬になってから。

 でも、ご家族のもとには昨年11月頃から脅迫状などが来ていて、それは政府にも伝えてあったという。

 なのに、その間、政府はどんな手を打ってきたのだろう?

 加えて、この時期に、安倍首相がわざわざ中東でハデに行った「イスラム国」攻撃の演説が、今度の殺害の引き金になったことは、否めない。

 

 更に、後藤さんの問題が暗礁に乗り上げているこの時期に、安倍首相が又々国会で行った、「国民を救出するための自衛隊出動」を巡る発言は、

「イスラム国」をいっそう刺激することになりはしないか?

 私は安倍首相の発言を聞きながら、危惧の念を禁じ得なかった。

 その危惧が当たったかどうかは分からないけれど、今朝、後藤さんの殺害がネットを通じて流された。

 

 安倍首相の最近の暴走ぶりは、本当に目に余るものがある。

 安倍首相の言うとおりにしていれば、日本はこれから更に危険な道に足を踏み出すことになる。

 彼は、「国民を救出するために自衛隊出動を!」と言う。

 国民を救出するために自衛隊を出動させる! それは、とりもなおさず武力によって問題を解決しようとするものだ。

 それは憎しみの連鎖を断ち、中東の人たちに真の笑顔と幸せが戻ることを願って、危険を冒して支援活動をしてこられた後藤さんの願いにも反する

ものではないだろうか?

 それに、自衛隊だって国民だ。

 国外に出動した自衛隊が、無傷で帰って来られるとは、とても思えない。

 安倍首相は、ただ自分の思いを遂行するために、突っ走っているように思うのは、私だけだろうか?

 

 

 


初めて知った、アウシュビッツ【囚人オーケストラ】の存在

2015-02-01 13:30:44 | 日記

 昨日午後のNHKテレビで、2004年放送の番組(途中から見たので、題名が分からない)を、再度放映していた。

 途中からだったが、私はその画面を見たときから、一瞬たりともその画面から目が離せなくなった。

 それは、あのアウシュビッツ強制収容所で、【囚人オーケストラ】の一員(ヴァイオリン奏者)としての任務を与えられたゾヒィア・チコビアクさん」の、

戦中・戦後の言い知れぬ悩み・苦しみを追ったドキュメントだった。

                       

                        【囚人オーケストラ】時代の苦しみを語る、ゾヒィアさん

 

 私は、ナチスによるユダヤ人迫害・虐殺のことは、かなりよく知ってる方だと思っていた。

 でも、収容所内に【囚人オーケストラ】なるものが組織されていたことは、今回初めて知った。

 そして【囚人オーケストラ】は、(もちろん!)他の囚人たちを慰めるためなんかでなく、彼らを精神的に更に痛めつけるためのものだったのだ。

 

 

 当時ナチスは、囚人たちの一部を組織して【特別作業班】なるものもつくっていた。

 【特別作業班】の任務は‥?

 それは、囚人たちの大量殺戮の中核であったガス室送りを、直接行わせるものだった。

 特別作業班に選ばれた囚人たちの中には、自らの肉親(親や子・兄弟姉妹)を自身の手で、ガス室に送らざるを得ない人もいた。

 

                     収容所の周りを厳重に取り囲む鉄条網(上2枚)と、ガス室(一番下)

                    

                      

                     

 

 

 【囚人オーケストラ】は、弱った体で強制労働に向かい、更に疲れ切って強制労働から帰ってくる囚人たち(中には歩けない人もいた)に向かって、い

かにも陽気な行進曲などを演奏させられた。

 それらの曲は、強制労働をさせられる囚人たちの心をいたぶるように鳴り響き、彼らの傷ついた心を更に痛めつけた。

 囚人のガス室送りが行われるときも、囚人オーケストラは動員され、同じように明るく楽しい曲を演奏させられた。

  

 囚人オーケストラの演奏は、それを聞かされる囚人たちだけでなく、演奏する人たちの心も同じように苦しめた。

 囚人であるオーケストラ団員の自分が、仲間である同じ囚人たちを苦しめる演奏をさせられるという…事実。

 それも、自分が愛する“音楽”を使って!

 

 ゾヒィアさんの悩み・苦しみも、深かった。

 彼女は一時、オーケストラを辞めたいと申し出られる。

 それに対しての幹部の答えは‥「オーケストラか、さもなくば懲罰労働か!」 だった。

 彼女は、オーケストラに残ることを選ばれた。

 そのときの心境を、彼女はこう語られている。

 「私はあの時敗北したのです。時間の掛かる死に対する恐怖心の方が、私のなかで勝った…」 と。

 彼女の決定を誰が非難できようか?

 

 

 1945年5月、ナチスは降伏し、ゾヒィアさんたち囚人は解放された。

 しかし囚人だった人たちの苦しみが、これで終わったわけではない。

 ゾヒィアさんは、体力を回復するために数か月入院されるが、退院された後も、まともに仕事はできなかった。

 職場に行っても、軍服を見る度に貧血を起こし、叫び声を上げて倒れ、家に帰らされたからだ。

 人と親しい関係を結ぶこともできなかった。

 

 音楽も聴けなくなった。

 当時同居されてたお母さんからたまに演奏を頼まれると、彼女は1週間くらい発熱した。

 解放後10年くらい経って、彼女は意を決してコンサートに行かれた。

 でもそのコンサートで、“蝶々夫人”のアリア(それは収容所で演奏させられたものだった)を聴くと、気を失い意識が戻らず、救急車で運ばれた。

 彼女は自分を制御できなくなり、その時は、森や林に逃げ込み、昼も夜も歩き続けられたそうだ。

 

 

 転機が訪れたのは、1958年。 戦後13年が経った、35歳の夏だった。

 悩み抜いたあげく、彼女は再びアウシュビッツを訪ねる決意をされる。

 彼女は、亡くなった人に謝罪したかったのだと言われる。

                      

 

 

 

 彼女は言われる。 「アウシュビッツとの再会は、強烈でした。」と。

                         

       

 

 帰ってから数週間は、熱が続いたそうだ。

 

 しかし、アウシュビッツの訪問を続けられるうちに、彼女の心に“奇妙な安らぎ”が広がるようになった。

 体調がいい時は、音楽との絆を取り戻そうと、少しずつラジオが聴けるようにもなってきた。

 そして、時には楽しんだり、感銘を受けることもできるようになった。

 

 そして彼女は言われる。

  「どんなに不当な死でも、全くの無実の死でも、その人生には、きっと何かの意味があるはずです。

   いつかその意味が私にも理解できる日が来る、そう強く信じています。信じたいのです!」

 

 最後に、彼女の力強い言葉が書かれた幾枚かの写真を載せて、このブログを閉じます。

                     

 

     

 

 

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