畠山義綱のきままな能登ブログ

畠山義綱が見てきた史跡を紹介します。
時々、経済や政治などもつぶやきます。

高根城再訪

2010-08-11 18:08:00 | 歴史

 私がこの城を知ったのは、本屋で何気なく見た日本の城関係の本。その本に復元された高根城が紹介されていた。江戸城郭や復元された江戸城郭は何度の見ているし観光名所にもなっている。いったい室町期の城郭というのはどんなものなんだろう。しっかりとした室町城郭をイメージを膨らめるためにも、行かねばと思った。場所は静岡県水窪町(当時。現在の浜松市水窪町)。妻の実家がそれほど遠くない場所にあり、そこを基点に行ける。私が最初に高根城を訪れたのは2007年1月。その時はまだ雪が残っていたが、ノーマルタイヤの我が愛車「能登号」でも車道の雪は除雪されて訪問することができた。しかし、その時はインスタントカメラが残り5枚という大失態で、せっかくの訪問にも記録にほとんど留めることができなかった。そして、デジカメを2007年7月に購入。せっかくだから高根城も再訪することに(2010年8月)。

 高根城は遠江の北端にあり、室町時代は今川氏の領国下、奥山氏の拠点となっていた。ところが有名な桶狭間の合戦で今川義元が討たれ、今川氏の命運が傾くと高根城も武田氏の進攻にさらされることになる。元亀年間に武田氏下に入った高根城は駿遠攻略の最前線として大改修となる。復元された高根城は武田氏時代の遺構である。ただ、発掘調査で得られた遺構や出土物の多くは、武田氏時代のものでなく、15世紀中葉から16世紀前半に城主であった奥山時代のものが多かったらしい。



 いよいよ高根城入城。門の跡は発掘されているが、遺構では地中より上の門の様子は伝えられない。これは、おそらく洛中洛外図屏風や他の伝●●門などと同じような形で推定復元された門である。この門は高根城本曲輪の大手門らしく、写真では見えないが、しっかりと礎石がある。



 門の外から城の下をみると、水窪の町が一望できる。典型的な山城だということがわかる。この町があったからこそ、この山に城を築いたのであろうことがわかる。現地を訪れてこそわかることである。



 本曲輪には、発掘調査に関する説明版などがしっかりと整備されている。地元に高根城に関する資料館がないので、詳しく知りたい場合にはこの説明版などをつぶさにみるのが一番である。発掘調査時の写真なども載っていてとても丁寧。


 主殿に続く門は掘立柱の門、左手に井楼櫓があります。櫓は武田氏時代の遺構で、掘立柱建物であるが、正方形でそれほど広くない建物であること、柱穴から大きな柱が使われたであろうことから櫓と推定されたという。右手に見える主殿風の建物は残念がら公園の管理施設であり復元ではないとの説明があった。このあたりは発掘調査はされていないのだろうか。しかし、この風景は、室町時代の雰囲気そのままを味わえる貴重な風景ではないだろうか。これが無料で入城できる、というのがスゴイ。


 本曲輪は結構せまい。信濃と遠江の国境を警備するために建てられた城だけに、それほど重要視はされなかったのかもしれない。壁には鉄砲や矢を放つ小窓が備えられている。小さいながらも本格的な城郭だ。本曲輪を出ると二の曲輪にでます。


(↑写真は2007年1月の写真です)
 高根城の本曲輪から他の曲輪を見渡すとこのように、柵で囲まれている。この柵も遺構で確認されたものである。高根城は大名の居城ではなく、戦闘の最前線の城である。だからこそ本郭には壁があったのであろが、その他は柵等の簡単な防御施設程度だったようである。なるほど江戸時代のようなすべてを白塗りの豪華な壁で覆うのではなく、実質本位の造りである。


 さらにこの柵で囲まれた曲輪は相当な堀で囲まれている。かなりの高低差があり、曲輪同士は土橋や木橋でつながれていた。この堀は城郭の説明版によると深さ8mにもおよび、堀の角度は45°にもなるそうだ。



 写真を撮っている場所から本曲輪に行こうとすれば、かならず柵の曲輪を通ることになり、ここで攻撃側は相当な守備側の攻撃にさらされる。室町時代の城郭は本当にうまくできているなあと感心する。本曲輪はかなり小さいが、関が原合戦や大阪のような大規模な戦闘ではないなら、この程度の大きさで十分であろう。

 この高根城は、浜松市に合併する前の旧水窪町が町おこしの一環として、1993年から高根城を中世の城として復元整備するべく発掘調査が進められた。そして、2004年には3億円を費やして、本曲輪(ほんくるわ)部分に井楼櫓(せいろうやぐら)、主殿(正確には主殿風公園管理棟)、城門が復元された。水窪町はいわゆる「平成の大合併」の流れで2005年7月1日に浜松市と合併し、消滅した。財源の効率化、無駄の節減、地方の切捨ての中、もし水窪町が合併される前に高根城復元が間に合わなかったら、はたして浜松市は高根城復元を考えただろうか?本当に「平成の大合併」という選択は正しかったのだろうか?この高根城のような地方の中世城郭が今後ももれないことを望む。