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平城京遷都1300年祭の訪問記の最後となりました。5回目は「平城宮跡資料館」の様子をお伝えします。写真が資料館の入口です。
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資料館の最初で、平城宮が遷都されてからどのように調査・発掘・復元されたのかを模型で展示してあります。この資料館に私は2008年5月に訪問したことがあるのですが、展示内容が一新されていますね。たしか2009年に資料館は展示替えのために長期閉館していたから、それでリニューアルしたんですね。資料も充実しているのに無料というのがスゴイです。ちなみに、東院庭園も、遺構展示館も第一次大極殿も無料です。スゴイ。
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大極殿院の模型があります。大極殿を訪れたあとなので、「本来はこうなっていたんだな」と理解することができます。
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さて、これはなんでしょう。そうです机と椅子と棚です。どこかでみたことがあったな…と思うと、そうです。宮内省の復元建物のところでした。
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このように、復元もととなった出土資料が展示されています。硯や筆などいろいろな筆記用具も見つかっているんですね。
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そして、それを元に復元した資料の解説がしっかりと載っています。
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この資料館では発掘調査の様子をそのまま展示するのではなく、今までの発掘調査の結果を総合的に見せるように工夫されています。写真の説明版は、奈良時代の天皇の内裏での生活を出土品からイメージしています。
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かんざし、くし、ヘアピン、扇など生活に密着するものが続々と発掘されているようです。奈良時代の文献というのは限られているだけに、こういう考古学的資料はとても歴史を知るうえで参考になります。
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貴族の食事を再現してあります。そういえば、これって高校の時の歴史の資料集で見たことがあるような。蘇とよばれるチーズのような乳製品や、鴨肉の入った汁物など江戸時代と比較しても色々な食材が食べられていたんだな、というのを感じます。江戸時代は日本独自の食文化が栄えましたが、奈良時代は大陸(=中国)の料理の影響を受けたんでしょう。平安貴族が東院庭園での宴会でチーズを食べていた!なんて想像すると楽しいです。
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相当色々な食器が出土しています。それほどこの平城宮では宴会が頻繁に開かられたんでしょう。
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こちらは平城京を造営したときに使われたスコップです。まだ鉄が貴重だった時代ですからスコップの全部が鉄ではなく、先端のみ鉄が使われています。おそらく庶民たちは農作業に木のスコップが使われていたことでしょう。当時の最先端技術を生かして平城京は作られたのですね。都の造営にあたっては多くの建築資材が必要なため、木材を伐採したために全く木がなくなった山もあったほど。それだけのエネルギーが平城京に集中していることがわかります。
平城宮跡資料館では、朱雀門、式部省、兵部省、宮内省、東院庭園、第一次大極殿など数々の復原をみたあとで訪れると、その復元の忠実性がよくわかります。平城宮をもっとよく知るためにはぜひ押さえておきたい資料館です。
さて、エントランス広場の一角に、「将来の平城宮跡国立公園整備の姿」の模型がありました。
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これによると、近鉄奈良線はやはり撤去(公園内を通らない)になるみたいです。その方が朱雀門から大極殿への眺めが抜群によくなります。大極殿院は後殿以外はほぼ復元を行うみたいで、平城京朱雀大路→平城宮朱雀門→大極殿院の道が相当整備されることになります。
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さらに、2010年にリニューアルされた「平城宮跡資料館」は朱雀門の南東に移転するらしい。そう考えると、「平城宮跡国立公園」の整備はまだまだ途上です。
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写真は朱雀門を北から撮ったものです。平城宮跡は15年前に比べとても整備されました。歴史のマニアが楽しむようなスポットから一般受けし、誰もが学習しやすいような環境へと生まれ変わろうとしています。そして、朱雀門や東院庭園、第一次大極殿の復原を見れば、奈良時代はとても豪華で豊かな時代であったことが想起されます。
しかし、私はあえて歴史好きだからこそ考えることがあります。それは「奈良時代というのはとても貧富の格差があり、矛盾していた時代だった」ということです。
貧窮問答歌(山上憶良)
父母は 枕の方に妻子どもは 足の方に 囲み居て 憂へ吟ひ
竈には 火気ふき立てず 甑には 蜘蛛の巣懸きて 飯炊ぐ 事も忘れて
鵺鳥の呻吟ひ居るに いとのきて 短き物を 端截ると云へるが如く
しもと取る 五十戸良ず声は 寝屋処まで 来立ち呼ばひぬ
かくばかり 術無きものか 世間の道
奈良時代の庶民の生活はとても苦しいものでした。租庸調雑徭の重税に苦しみ、国司のエゴに苦しみ、飢えに苦しみ、防人では九州に兵役に行かねばならず、度重なる都の造営、東大寺や国分寺の造営でどれだけの庶民が苦しみ亡くなったことでしょう。あまりの飢えに班田収授法を逃れて平城京へ逃げ込む農民が多かったと言いますが、それでも職も食もなくかなりの人が餓死したと言われます。
平城京の人口はおよそ10万人と言われます。そのうち宮廷貴族は1万人と言われています。貴族であっても位の低いものはアルバイトをしないと生活ができないくらいだと言われているので、実質的に豪華な生活をしていたのは、貴族のうち1000人くらいでしょう。奈良時代の日本の総人口500万人のほとんどが苦しみ、生き地獄のような生活を営んでいるからこそ、この平城宮のような豪華絢爛な建物を建てることができるのです。そのような時代の矛盾などを合わせて考えて、史跡を回っていただければ社会を学ぶものとして幸いです。
さて、今度は9月に新潟県の春日山城、長野県の高梨氏館を回ってきます。ブログのアップをお楽しみに。