さて、「平城京遷都1300年祭~其の2~」です。今回は朱雀門から北東に位置する東院庭園をお送りします。東院庭園の入口です。写真左奥の建物が入口で、写真右の建物が復元された建部門です。
本来はこの地に平城宮はなかったとされていたのが、平城宮の東に張り出し部分があることが1967年の発掘調査でわかりました。しかもかなり大きな庭園です。この庭園部分が1998年に完全復元され公開されています。しかも、資料館には発掘調査の様子が事細かに記されているので、とても参考になります。写真の発掘調査時の東院庭園の模型です。多くの建物のや中央の池の景石などがあるのがよくわかります。
模型だけなく、奈良時代は前半と後半に分けられる。平城京は710年から長岡京に都が遷る784年まで一貫して都であったわけではない。途中740年からは恭仁京(京都府
相楽郡)→744年難波宮(大阪市中央区)→745年紫香楽宮(滋賀県甲賀市)と聖武天皇は頻繁に都を遷し、745年中に再び平城京に戻る。つまり平城京の時代は、710年~740年の前半と、745年~784年までの後半に分けられる。この東院庭園も同じで、奈良時代の前半と後半では庭園の様式が違う。復元にあたっては、奈良時代の後半を再現している。では、復元庭園を写真でご覧ください。
ここを訪れると本当に心が落ち着きます。豪華な気持ちにもなります。奈良時代は古代の庭園ですが、意外と中世の庭園との共通点も見出すことができます。まずは、池の真ん中にある「中島」の存在。池を作る上ではかなり一般的です。
庭には大きな石があり、築山(人工の山)が組まれています。池の中島をどこかの地域になぞらえたり、築山を実際の山に見立てて景色を楽しんだりするなどが庭園の楽しみ方です。古代奈良時代の庭園造りが中世の源流になっているんですね。
池の傍にある建物は池を横断する橋もあり、さらに池の側に縁側が設けられています。この縁側で宴会を楽しんだことでしょう。想像図が「平城宮跡資料館」にあったので、掲載します。
(↑写真は「平城宮跡資料館」のイメージ図)
月見の宴会。夜風を受けた宴会。雨が降ったら建物の中に入って宴会。豪華なことですね。私がこれを見てイメージするのは、ちょっと時代が違うのですが平安時代の藤原道長です。「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の かけたることも なしと思へば」という有名な歌を詠んでいますが、このような宴会で詠んだのでしょう。
さて、東院庭園には、大きな池のほかにこのような曲水路があります。ここから池に水を導入していたのか?と思ったら「東院庭園」のパンフレットをみるとどうやら違うようです。この曲水路は奈良時代前半の遺構とあります。東院庭園は奈良時代後半の復元ですので、この曲水路だけちょっと異質なもの、ということになります。奈良時代後半の池には、ちゃんと別に導水路と排水路が引かれていたようです。なぜ、このような違う時代の遺構復元を行ったのがはなはだ疑問です。
普通復元するときには、史跡全体で復元する時代を統一します。しかし、平城宮はちょっとちがうようです。さらに言えば、東院庭園は奈良時代の後半復元。2009年に完成した第一次大極殿は奈良時代前半の遺構復元であり、平城宮跡全体として残念ながら計画的な復元とは言えないような気もします。少なくとも、東院庭園の曲水路の復元箇所には注意文の看板を置くべきではないか、と思いました。
ちなみに、一番最初の写真に見える門の奥に見える建物が東院庭園のガイダンス建物ですが、実はこれも復元建物です。庭園とは直接関係ない建物だったようですが、庭園のガイダンス建物として復元し、内部を資料館にしたということです。
東院庭園を出て西に進むと何やら石段が。これは平城宮の東にあった小子部門の跡らしいです。基壇のみの復元ですが、こういうちょっとしたものをみるのも平城宮探訪の楽しみでもあります。しかし、説明版くらいあればいいのにとも思ったりします。
東院庭園の北側では発掘調査が進められていました。将来的には平城宮全体が発掘調査されるんでしょうか。ますます平城宮から目が離せません。
さて、東院庭園だけで結構ボリューム盛りだくさんだったので、平城京遷都1300年祭~其の2~はこの辺で終わります。次は其の3では遺構展示館を紹介したいと思います。