2003年8月7日に、家族で福島に旅行をしてきました。そこでは、猪苗代湖や二本松城にも行ってきました。車のマシントラブルで、せっかく行った会津若松城の写真がないのが残念です(ディーラーとの折衝で心に余裕がありませんでした)。2011年に歴史友達の武藤舜秀様福島に旅行するので、会津若松城の写真はメッチャ撮ってきます。松平容保LOVEな私にとって、会津若松城の写真がないのはちょっとつらい…。あら…今回は会津若松城の話ではありません。福島県二本松市にある「二本松城」です。
二本松城は、奥州畠山氏(二本松畠山氏)7代当主・畠山満泰が築城しました。満泰は前当主・国詮が拠点とした田地ヶ岡が防衛に適さないという理由で、嘉吉年間(1441~1444)に要害の地である白旗ヶ峯に居館を移し、二本松城としました。
二本松畠山氏はが1589(天正16)年に滅亡すると、短期間に蒲生、上杉など次々と領主が交代しました。1643(寛永20)年には江戸幕府によって旧織田家臣であった丹羽氏が大名として入城します。この丹羽氏によって二本松城が近世城郭として整えられます。
現在の二本松城は、国指定史跡であり「霞ケ城公園」として箕輪門の復元や本丸の石垣が整備復元されています(霞ケ城は二本松城の別名)。最初の写真にあるガトリング砲を打つ銅像は、戊辰戦争時に旧幕府派である「奥羽越列藩同盟」に参加し、敗戦した時の「二本松少年隊」の銅像です。
「二本松少年隊」銅像の後ろに、櫓があります。この櫓なんと復元ではなく模擬櫓。まったくの想像。この景観への溶け込み具合は見事ですね。と言っても歴史学的にはどうなのかって議論もあります。戦国時代の砦に天守閣を築くような時代考証不足の模擬櫓ではないのが救いです。
この本丸石垣は1995(平成7)年に復元されたものです。かなり立派ですが、まだまだ新しいもので若干の違和感があります。時間が立てばなじんでくるでしょう。と言ってももう15年くらい建ってますね。
本丸は結構な広さをもっています。
フラッシュでちょっとみずらいですが、二本松城の本丸の図面です。この本丸の石垣がまるごと復元されています。
このように天守台の石垣も見事に復元され、二本松城の往年の姿が想像できます。虎口なども見事に再現されています。天守閣の復元の話もあるようですが、東日本大震災の対応もあり難しくなってきているかもしれませんね。
この特徴的な松は「霞ケ城公園」にある樹齢300年といわれる「傘松」です。昔、ここに霊松二本があって、この山を二本松と呼んでいたことが二本松の地名の由来とも言われています。わざわざ人の手で押えないと枝がおれてしまうほど重いんですね。歴史スポットではないですが、思わずシャッターを切りました。
二本松歴史資料館に来ました。入館料は100円という破格の安さです。二本松城についての資料や市内の遺跡について知るにはちょうどいいところです。
市内の遺跡より出土した土器や石器の展示、畠山時代からの美術工芸品や古文書・民俗資料などが展示されています。写真は出土した相馬焼が展示されていました。
中世に二本松を支配した二本松畠山氏は資料が乏しいことから、あまり資料はありません。
唯一の文書は、畠山義継の古文書です。こちらに来ても二本松畠山氏の学習は難しいかもしれません。残念だな~と思いながら隣の二本松市立図書館に入ると、郷土本コーナーの中に二本松畠山氏関連の本が結構ありました。
私の本サイトの「二本松畠山」のコンテンツは、ほとんどこちらの図書館を参考に書いたものです。二本松畠山を調べる場合には、ぜひこちらの図書館へ!
二本松城は、奥州畠山氏(二本松畠山氏)7代当主・畠山満泰が築城しました。満泰は前当主・国詮が拠点とした田地ヶ岡が防衛に適さないという理由で、嘉吉年間(1441~1444)に要害の地である白旗ヶ峯に居館を移し、二本松城としました。
二本松畠山氏はが1589(天正16)年に滅亡すると、短期間に蒲生、上杉など次々と領主が交代しました。1643(寛永20)年には江戸幕府によって旧織田家臣であった丹羽氏が大名として入城します。この丹羽氏によって二本松城が近世城郭として整えられます。
現在の二本松城は、国指定史跡であり「霞ケ城公園」として箕輪門の復元や本丸の石垣が整備復元されています(霞ケ城は二本松城の別名)。最初の写真にあるガトリング砲を打つ銅像は、戊辰戦争時に旧幕府派である「奥羽越列藩同盟」に参加し、敗戦した時の「二本松少年隊」の銅像です。
「二本松少年隊」銅像の後ろに、櫓があります。この櫓なんと復元ではなく模擬櫓。まったくの想像。この景観への溶け込み具合は見事ですね。と言っても歴史学的にはどうなのかって議論もあります。戦国時代の砦に天守閣を築くような時代考証不足の模擬櫓ではないのが救いです。
この本丸石垣は1995(平成7)年に復元されたものです。かなり立派ですが、まだまだ新しいもので若干の違和感があります。時間が立てばなじんでくるでしょう。と言ってももう15年くらい建ってますね。
本丸は結構な広さをもっています。
フラッシュでちょっとみずらいですが、二本松城の本丸の図面です。この本丸の石垣がまるごと復元されています。
このように天守台の石垣も見事に復元され、二本松城の往年の姿が想像できます。虎口なども見事に再現されています。天守閣の復元の話もあるようですが、東日本大震災の対応もあり難しくなってきているかもしれませんね。
この特徴的な松は「霞ケ城公園」にある樹齢300年といわれる「傘松」です。昔、ここに霊松二本があって、この山を二本松と呼んでいたことが二本松の地名の由来とも言われています。わざわざ人の手で押えないと枝がおれてしまうほど重いんですね。歴史スポットではないですが、思わずシャッターを切りました。
二本松歴史資料館に来ました。入館料は100円という破格の安さです。二本松城についての資料や市内の遺跡について知るにはちょうどいいところです。
市内の遺跡より出土した土器や石器の展示、畠山時代からの美術工芸品や古文書・民俗資料などが展示されています。写真は出土した相馬焼が展示されていました。
中世に二本松を支配した二本松畠山氏は資料が乏しいことから、あまり資料はありません。
唯一の文書は、畠山義継の古文書です。こちらに来ても二本松畠山氏の学習は難しいかもしれません。残念だな~と思いながら隣の二本松市立図書館に入ると、郷土本コーナーの中に二本松畠山氏関連の本が結構ありました。
私の本サイトの「二本松畠山」のコンテンツは、ほとんどこちらの図書館を参考に書いたものです。二本松畠山を調べる場合には、ぜひこちらの図書館へ!