畠山義綱のきままな能登ブログ

畠山義綱が見てきた史跡を紹介します。
時々、経済や政治などもつぶやきます。

福島旅行~其の1~

2011-09-15 04:44:00 | 旅行・観光
 東日本大震災からの復興途上にあり、原発問題を抱える福島県。その復興支援の一助になればと2011年9月10日(土)~9月11日(日)に歴史友達の武藤舜秀様と、福島に旅行に行ってきました。また、会津若松城(鶴ヶ城)の屋根の瓦が赤瓦になったので、ぜひ行ってみたいと思っていました。



 まず、福島で一番行きたかった会津へ。関東を夜明け前に出発し、会津若松市に着いたのは朝の7:30。朝食を食べていなかったので、デニーズで食べる。会津若松城の天守閣の開館時間が9:30なのでまだまだ時間があります。そこで、会津観光のためにもらったマップを眺めていると、葦名氏の史跡として「小田山城」を発見。「小田山城」は復元冠木門があります。さらに山の麓に葦名家廟所があります。では早速小田山城へ登城します。


 「小田山城」には麓に駐車スペースがあるので、そちらに車を泊めて後は歩いて登ります。

 7代目葦名当主・直盛母が建立した観音堂があった場所だそうです。残念ながら戊辰戦争の時に焼失したと言います。



 小田山城は公園として整備されています。歩いて登城するにも山道が整備されているので歩きやすいです。ですが、登城している感じはしません…。むしろ登山のような気持ちです。時折、ランナーが通り過ぎ、筋力トレーニングの道として使われているようです。



 「西軍砲陣跡」です。戊辰戦争時、ここから新政府軍が会津若松城を砲撃したそうです…。「小田山城」からよく会津若松城が見えます…。すこし悲しい気持ちになります。


 そして、駐車スペースから20分(800m)ほど歩いたところでいよいよ到着です。

 復元冠木門です。戦国大名であった葦名氏の居館は黒川城(現在の会津若松城)ですが、それは日ごろのの居館としての場所でした。この小田山城は黒川城から1.5km離れた位置にあり、戦時の防戦のための城として築かれたそうです。それが後世になって、戊辰戦争時会津若松城攻略の拠点として使われたことはまさに歴史の皮肉です…。



 冠木門だけでなく、板塀もいい感じで復元されています。愛知県新城市で復元されていた「川尻城の復元冠木門」に比べると、まだましな考証されている感じがします。



 「葦名」の旗が沈んでしまっています。写真ではわからないかもしれませんが、この冠木門の内部はとても狭いです。ここに本当に冠木門があったんでしょうか?説明版には、「曲輪の内部には掘立柱建物や櫓が建てられていたと推定され」とあるので、曲輪内部の発掘調査まではされてないようです。



 小田山城はかなりの高さです。天然の要害という感じです。写真は復元冠木門があった曲輪から斜面を撮ったものです。



 次は小田山城の麓にある「葦名家廟所」(墓地)です。写真のようにもう住宅に囲まれているところです。

 この五輪塔はまさしく室町時代の墓ですね。しかもかなり大きい。これは、葦名家中興の祖とも言える「葦名盛氏」の廟です。葦名家最大版図までひろげた盛氏の手腕は光るものがありますね。他にも「葦名盛隆」と「葦名盛興」の五輪塔がありました。

このように、葦名家の系図や説明文があって勉強になります。葦名の史跡に触れることができるスポットです。


 さて時間も9:30を過ぎたので次は会津若松城(鶴ヶ城)に向かいたいと思います。それはまた次回に。