畠山義綱のきままな能登ブログ

畠山義綱が見てきた史跡を紹介します。
時々、経済や政治などもつぶやきます。

ヤクルト5割復帰

2010-08-25 07:24:00 | ヤクルト

(↑監督代行就任時に神宮球場に掲げられたファンへのメッセージ)

 昨日の横浜戦に快勝し、高田監督時代の借金19を完済。借金19を5割に戻したチームはセリーグでは1966年の阪神以来44年ぶりだそうだ。言葉を変えれば小川監督代行は貯金19。小川監督代行就任以降のヤクルトの成績は41勝22敗1分け、勝率は6割5分。すごい成績だ。
 スワローズファンの中では、小川監督代行の来期昇格を熱望する声が強い。私も同感だ。小川監督代行をオリックスの大石元監督になぞらえる人がいる。オリックスのコリンズ監督が2008年5月に成績不振(コリンズ・オリックス21勝28敗)で休養。監督代行の大石氏が引き受けた時4位を2位まで引き上げた(オリックス2008年75勝68敗1分け)。翌年は監督に昇格をしたが成績は不振で最下位となった(オリックス2009年56勝86敗2分)。小川監督代行はぶっちぎりの最下位球団(高田ヤクルト13勝32敗1分)を引き受けた。また44年ぶりという記録もある。来期監督に昇格をしても好成績を残すと私は信じたい。

 ヤクルトという球団は実に面白い。強いか弱いかハッキリしている。優勝した時の監督は、広岡(1978)、野村(1992、1993、1995、1997)、若松(2001)である。他の監督時代は弱い時代である。若松は優勝こそ一度しかないものの就任時に2年連続4位と低迷した後、優勝を含めて4年間連続Aクラス時代が続く。
 ヤクルトの強い監督を分析するとき古田敦也氏が現役時代に興味深いことをのべている。
「野村監督は、ついて行けば勝てるという監督。若松監督は、勝たせてあげたいという監督。」

 ヤクルトという球団が「セリーグのお荷物球団」と呼ばれた昔の時代。選手たちは実力もない、負け犬根性をもっているという状態で、どんな人柄がよい人物が監督でも優勝できなかった。だから広岡という知将が、優勝に導いた。しばらくまた低迷したヤクルトを立て直したのが野村氏。1990年~1998年というヤクルトの監督としては異例の長期政権。この間にしっかりとした選手が育った。池山、古田、伊藤智、飯田、土橋などなど。さらにまた指導者も育っていた。伊勢氏は指導者としての実力を買われ近鉄に、尾花氏も同様にダイエーに指導者として移籍。
 本当にヤクルトは強いチームに育ちました。だからこそ今のヤクルトは知将でも人柄のよい監督でもよい成績が残せるわけです。
 高田監督が成績低迷で休養するとき「勝てるか負けるか紙一重だと思う」と言ったのは確かな分析。だからこそ、そんなに戦力的補強が無くても小川監督代行は勝てるのだ。選手に慕われるよき人柄の監督として。
 はからずしも高田監督の読みはあたったことになれ。高田監督は残念ながら知将でも選手に慕われる監督でもなかった。ただ、選手の能力把握や戦力分析に長けていた。だからこそ高田氏は日ハムGM時代大成功した。
 高田氏の分析通りヤクルトは強いチームになった。小川監督代行が来期昇格をすれば再び強くなる。では荒木監督なら?知将?人柄?残念ながらまだ未知数だ。来期小川監督を熱望する!

サカつく04

2010-08-22 21:47:00 | ゲーム
 Wiiを買いました。理由はドラクエ10がWiiで発売されるからです(笑)なのに私は今プレステ2の「プロサッカークラブを作ろう04」にハマってます。


「04」とは2004年発売のものだからです。なぜ6年前のゲームをやるかというと、780円で売ってたからです。スポーツゲームは3年もするとメチャ安くなります。理由はどんな面白いスポーツゲームでも、3年も経つと古くなり時代遅れになるからです。ただ私はサッカーにあまり興味がないから時代遅れでも「ゲーム自体が面白ければOK」なんです。
 このゲームではJ2に好きな地域で新加盟のクラブを作成しクラブを強くしていく、という内容です。サッカーゲームというよりはサッカーチーム経営ゲーム、GM(ゼネラルマネージャー)体験ゲームのような感じです。
ホームは能登の七尾市にしようか地元にしようか迷ったのですが、住み慣れた地元にしました。初年度はJ2で13位(14チーム中)とボロクソ(泣)このゲームは序盤が難しくかなりイライラしましたが、お金の遣り繰りで補強をし、2年目にJ2優勝。3年目はJ1に昇格!というところまで進みました。


 「プロ野球チームをつくろう」というゲームもあるんですが…これは私には向きませんでした。このゲームは新規加盟チームを好きな地域に新たに作るか、既存の12球団を経営できるのですが、
1、ヤクルトが好き過ぎて新規球団なんて作れない。
2、ゲームバランスの都合上どこの球団を選んでも最初は弱く設定されており、ヤクルト球団を選んでプレイすると弱くてストレスが溜まる。
3、球団を強くするためには補強をしなければならず、生え抜き選手の多くをクビにしなければならない。

という問題点があります。うーん悩ましい。だからゴヒイキチームの無いサッカーの方がプレイしていて楽しいんです。(私はサッカーの戦術もたいしてしらないけど)。オールドゲームにもそんな楽しみがあります。


水道橋のカレー屋

2010-08-19 21:04:00 | 日記

 JR水道橋駅前にある(と言ってもちょっと裏道に入る喫茶店ベローチェの前)カレーハウスを紹介します。「カレーハングリー味川」というお店です。水道橋には日本大学がある大学生の街。それとともに中小出版会社などの企業がある街でもあります。このカレーハウスは、大学生向けのようで、残念ながら土日は営業していません。確か営業時間も夜の7時までと、なかなか一般の人にはお目にかかれない時間。

 さて私が好きなのが「玉子カレー」。これです。

これはご飯大盛りになっていますが、それでも600円。普通の量のたまごカレーなら500円という安さ。カレーのルーは普通に鍋からよそうのでカレーだけなら早くできます。味は普通のカレーのようにドロっとしたものでなくスープ状。それでいてインドのカレーのようにメチャ香辛料!という感じではありません。日本人好みの味付けです。
 さらにさらにトッピングの具が手作りで込んでいるのです。目の前の鉄板で卵を焼きます。型に卵を落として、蓋を閉じて蒸す。頃合いを見計らって「ジューっ」と音がしたらパッと胡椒を振る。この作業がなんとも手早く美しい。それを見るだけでも楽しくなります。他にもチキンでもハンバーグでも目の前で焼いてくれる丁寧さ。ご主人の明るい顔がこれまたサイコー。お店自体は古いカレースタンドという感じで一見女性向ではないのですが、味は女性にも好まれる味です。(うちの妻もおいしい、と言いました)
 平日休みで、東京ドームに出かける方、または神保町の古書街で買い物し、JR水道橋駅を使って帰る方。ぜひお勧めです。

3連敗

2010-08-18 16:50:00 | ヤクルト
 3連敗でCS進出は難しくなりました。ただ、借金19からここまで立ち直っただけでまずは十分。ぶっちぎりの最下位だったのにAクラス争いをしてるんです。こんな嬉しいことはありません。来シーズンに期待させてくれる現ヤクルト指導陣、選手に感謝!

平城京遷都1300年祭~其の5~

2010-08-16 18:16:00 | 旅行・観光

 平城京遷都1300年祭の訪問記の最後となりました。5回目は「平城宮跡資料館」の様子をお伝えします。写真が資料館の入口です。


 資料館の最初で、平城宮が遷都されてからどのように調査・発掘・復元されたのかを模型で展示してあります。この資料館に私は2008年5月に訪問したことがあるのですが、展示内容が一新されていますね。たしか2009年に資料館は展示替えのために長期閉館していたから、それでリニューアルしたんですね。資料も充実しているのに無料というのがスゴイです。ちなみに、東院庭園も、遺構展示館も第一次大極殿も無料です。スゴイ。



 大極殿院の模型があります。大極殿を訪れたあとなので、「本来はこうなっていたんだな」と理解することができます。



 さて、これはなんでしょう。そうです机と椅子と棚です。どこかでみたことがあったな…と思うと、そうです。宮内省の復元建物のところでした。


 このように、復元もととなった出土資料が展示されています。硯や筆などいろいろな筆記用具も見つかっているんですね。


 そして、それを元に復元した資料の解説がしっかりと載っています。



 この資料館では発掘調査の様子をそのまま展示するのではなく、今までの発掘調査の結果を総合的に見せるように工夫されています。写真の説明版は、奈良時代の天皇の内裏での生活を出土品からイメージしています。


 かんざし、くし、ヘアピン、扇など生活に密着するものが続々と発掘されているようです。奈良時代の文献というのは限られているだけに、こういう考古学的資料はとても歴史を知るうえで参考になります。


 貴族の食事を再現してあります。そういえば、これって高校の時の歴史の資料集で見たことがあるような。蘇とよばれるチーズのような乳製品や、鴨肉の入った汁物など江戸時代と比較しても色々な食材が食べられていたんだな、というのを感じます。江戸時代は日本独自の食文化が栄えましたが、奈良時代は大陸(=中国)の料理の影響を受けたんでしょう。平安貴族が東院庭園での宴会でチーズを食べていた!なんて想像すると楽しいです。


 相当色々な食器が出土しています。それほどこの平城宮では宴会が頻繁に開かられたんでしょう。


 こちらは平城京を造営したときに使われたスコップです。まだ鉄が貴重だった時代ですからスコップの全部が鉄ではなく、先端のみ鉄が使われています。おそらく庶民たちは農作業に木のスコップが使われていたことでしょう。当時の最先端技術を生かして平城京は作られたのですね。都の造営にあたっては多くの建築資材が必要なため、木材を伐採したために全く木がなくなった山もあったほど。それだけのエネルギーが平城京に集中していることがわかります。
 平城宮跡資料館では、朱雀門、式部省、兵部省、宮内省、東院庭園、第一次大極殿など数々の復原をみたあとで訪れると、その復元の忠実性がよくわかります。平城宮をもっとよく知るためにはぜひ押さえておきたい資料館です。


 さて、エントランス広場の一角に、「将来の平城宮跡国立公園整備の姿」の模型がありました。

 これによると、近鉄奈良線はやはり撤去(公園内を通らない)になるみたいです。その方が朱雀門から大極殿への眺めが抜群によくなります。大極殿院は後殿以外はほぼ復元を行うみたいで、平城京朱雀大路→平城宮朱雀門→大極殿院の道が相当整備されることになります。


 さらに、2010年にリニューアルされた「平城宮跡資料館」は朱雀門の南東に移転するらしい。そう考えると、「平城宮跡国立公園」の整備はまだまだ途上です。



 写真は朱雀門を北から撮ったものです。平城宮跡は15年前に比べとても整備されました。歴史のマニアが楽しむようなスポットから一般受けし、誰もが学習しやすいような環境へと生まれ変わろうとしています。そして、朱雀門や東院庭園、第一次大極殿の復原を見れば、奈良時代はとても豪華で豊かな時代であったことが想起されます。
 しかし、私はあえて歴史好きだからこそ考えることがあります。それは「奈良時代というのはとても貧富の格差があり、矛盾していた時代だった」ということです。

貧窮問答歌(山上憶良)
父母は 枕の方に妻子どもは 足の方に 囲み居て 憂へ吟ひ 
竈には 火気ふき立てず 甑には 蜘蛛の巣懸きて 飯炊ぐ 事も忘れて
鵺鳥の呻吟ひ居るに いとのきて 短き物を 端截ると云へるが如く
しもと取る 五十戸良ず声は 寝屋処まで 来立ち呼ばひぬ
かくばかり 術無きものか 世間の道

 奈良時代の庶民の生活はとても苦しいものでした。租庸調雑徭の重税に苦しみ、国司のエゴに苦しみ、飢えに苦しみ、防人では九州に兵役に行かねばならず、度重なる都の造営、東大寺や国分寺の造営でどれだけの庶民が苦しみ亡くなったことでしょう。あまりの飢えに班田収授法を逃れて平城京へ逃げ込む農民が多かったと言いますが、それでも職も食もなくかなりの人が餓死したと言われます。
 平城京の人口はおよそ10万人と言われます。そのうち宮廷貴族は1万人と言われています。貴族であっても位の低いものはアルバイトをしないと生活ができないくらいだと言われているので、実質的に豪華な生活をしていたのは、貴族のうち1000人くらいでしょう。奈良時代の日本の総人口500万人のほとんどが苦しみ、生き地獄のような生活を営んでいるからこそ、この平城宮のような豪華絢爛な建物を建てることができるのです。そのような時代の矛盾などを合わせて考えて、史跡を回っていただければ社会を学ぶものとして幸いです。

 さて、今度は9月に新潟県の春日山城、長野県の高梨氏館を回ってきます。ブログのアップをお楽しみに。