畠山義綱のきままな能登ブログ

畠山義綱が見てきた史跡を紹介します。
時々、経済や政治などもつぶやきます。

観音寺城訪問記

2020-02-12 04:44:00 | 歴史


今回の義綱城館訪問記は「観音寺城」をお送りします。

観音寺城、登る前からちょっと不安な情報が。
安土城の麓にある「城なび館」の職員に「これから観音寺城に行くんです」と言うと、「あそこは入口がわかりにくいので、お寺さんにちゃんと聞いたらいいよ」と言われました。そんなにわかりにくいんだろうか…。


写真の模型はJR安土駅徒歩30秒にある「安土城郭資料館」の展示です。写真にある右の山が観音寺城がある山で、左奥にある小さな山が安土城がある山。本来どちらが城に適しているかは一目瞭然なのだが

六角氏=室町時代からの守護=中世=山城の観音寺城

織田信長=安土桃山時代の戦国大名=近世=平山城

という違いが時代的な違いがあるのだろう。

 観音寺城はその標高も432mと高く、防御性も優れており、中世五大山城(七尾城<能登・畠山氏>、春日山城<越後・上杉氏>、小谷城(近江・浅井氏>、月山富田城<石見・尼子氏>)の1つに数えられるほどの名城です。

 観音寺城が名城であるのは知っていましたが、あまり情報がネットにないので今まで嫌煙していました。最近は特に有名になっている同じ滋賀県の小谷城とは知名度が違うような気がします。今回、観音寺城を訪問した事でイマイチ知名度が低い理由がわかりました。


 今回私は、自家用車で訪問したため、麓から徒歩で登らず「観音正寺」を訪れる人のための有料林道(駐車場代含めて600円)を通って登城しました。ただ林道は車がすれ違うほどの道幅はなく、所々の待避所ですれ違う必要があり、私が訪れたのが平日だからよかったものの、休日で交通量が多いとかなり時間もかかるし運転技術もいるのではないかと思いました。観音正寺の駐車場からの参道の入口が上記写真です。


駐車場からの寺までの道はほぼ平坦です。

目加田屋敷あり?どこに?と思うと、

 平坦な参道から結構山の斜面を降りたところ。見たところ手すりもなければ階段もない。しかも古井戸注意とあり、行くのを躊躇するが、あまり人が降りていない斜面を下って写真を撮ったのがこの写真。

う~ん、草木が生い茂っていてあまり屋敷感はありません。こんな感じが続くのか…とちょっとブルーに。

 参道を歩いて観音正寺を目指すと、途中にこんな看板が…。「佐々木城107m?」私が目指しているのは観音寺城。寺が立てた看板がこんな単純な名前ミスをするだろうか?と思い、ひょっとする本城を守る付城のようなものかも…と思いスルー。とにかく案内が少なく、やはりこんな感じが続くのか…とブルー。


 またもや参道の途中で「おくのいん(奥の院)」という案内が。階段の上に大きな岩のトンネルが…。これはもしや…「逆転裁判」の綾里真宵が倉院の里で修行した奥の院のようなもの??と違う思考ルーチンが入り登ろうかと一瞬思う…も階段に竹で通せんぼがあるので諦める…。



 参道を通って、観音正寺到着。綺麗なお寺さんです。受付で入山料を払うとあったのですが…今日は平日のために、本堂で入山料をお支払いくださいと書いてある。
あっ!これは城に関わる重要な情報を発見。

綺麗な看板が立っている!

看板の目の前に車が止まっていたので、引きの写真は撮れませんでした…。でもこれだけ立派な看板があれば主郭部分はきっと丁寧に案内されているんだろう…とどこかで安心していました。



 本堂へ行く途中に、城への入口を発見。しかし門が閉ざされている?もしや観音寺城は台風被害などで入れなくなったのでは?と一瞬考える。このままこの門を開いて行けば、本堂を通らずに行けてしまう。すると入山料を払う必要がない。でも…まてよ…本来は受付で入山料を支払うはず。とすると、城への登城は入山料の支払いを前提にしているのではないか…。まずは本堂に行って入山料を支払うことに。


 本堂には住職らしき方がいて入山料500円を支払う。
「あの、観音寺城へ行きたいのですが、あの門が閉まっていた所が入口ですか?」
「はい、スーっとカギをあけてお入りください。」と合掌
対応の良さに気分良くがよくなり足取りが軽くなる。しかし、観音寺城のパンフレットなどもなく、安土城郭資料館でもらったブックレットも持ってくるのを忘れた。車まで取りに行くのは面倒だし時間がかかる。そこで、寺の入口にあった看板をカメラで撮り、それを目印に進むことに。

トビラを開けて進む…。

嫌な予感。あんまり整備されていない感じ…。寺の参道に対してかなり道も悪い。


観音寺城の案内も手書きの看板。ますます不安だが、本丸まで10分、一番通り大石垣まで20分という看板を信じて進む。

道はあまり良くないが、観音正寺から0.18km進んだところで本丸まで0.15kmの案内看板に一安心。


まっすぐ進むと「本丸」。左へ進むと屋敷(平井・落合・池田)とある。まずは本丸へ進む。


周囲を見渡すと大きい石がゴロゴロしている。

ここで簡単に観音寺城の歴史をおさらい。
 観音寺が歴史に登場するのは南北朝時代。佐々木氏頼が観音寺に布陣したとあるが当時は砦程度のものであったと思われる。居住できるような城として整備されたのは、16世紀前半。1544(天文13)年に観音寺城を訪れた連歌師・谷宗牧は。山上の城の「御二階」の座敷の茶室に案内され、茶器の名品と共に饗応され、城から帰る時には秘蔵の古筆を贈られたと記録されている通り、防御が優れているだけでなく、居住スペースとしても、文化拠点としても機能していたと言える。
 そんな観音寺城も1563(永禄6)年の当主・六角義治の時に起こったお家騒動で大名権力が揺らぎ、さらに1568(永禄11)年に織田信長に城を攻められると、正面から戦うことなく城を明け渡したと言われ、1579(天正7)年に安土城が完成すると、程近くの観音寺城は廃城となったと思われる。

 そんな観音寺城。至る所に大きい石がゴロゴロしており、その石が石垣に利用されたと考えられる。しかも安土城築城には大量の石が石垣に利用された事から、廃城となる観音寺城の石を転用したとも考えられる。元々観音寺城山は石が豊富だったのであろう。



 本丸に近づくにつれ、石垣が見える。それまでは石がゴロゴロしていただけだが、これは間違いなく石垣。



そして、ほどなくして本丸到着へ。イマイチ木々が多く位置がつかめない。また本丸の看板は、観音正寺にあったものと違い文字がかすれている。その看板によると1969(昭和44)年・1970(昭和45)年に発掘調査がされ整備されたという。最近の整備はあまり進んでいないようにも思う。と思ったその時…


えっ!?こんな石垣が残っているの!?とビックリ。本丸の裏虎口がこんなにハッキリと分かる遺構があるとは!このビックリはこの後も続く。


本丸北部の石垣。かなり立派に残っている。感動。


本丸跡から伝三ノ丸を伝って平井氏屋敷跡へ向かいます。ここにも大きな石がゴロゴロ。所々に石垣も見えます。かなり本格的な石垣の城と言うことが分かります。この城を明確に信長が整備したと言う記録はありません。というと、整備したのは六角氏?




本丸から平井氏屋敷跡にやってきました。

平井氏屋敷跡には昭和の発掘調査で庭園跡が見つかっているのですが、この荒れた感じでは見つけることができませんでした。庭園発見をメインに据えていただけにかなり残念。昭和の発掘の写真をみると池の周りの石組みとそれほど大きくない庭石なので、整備されずにあれると見えなくなるのは仕方ないと思いました。せめて看板で示して欲しいと思います。


 写真では倒木で見づらいですが、平氏屋敷跡の奥に三段の石段と石垣で区別されている区画があります。ここが庭園かともおもったのですが、遺構はよくわかりませんでした。しかし、石垣の残り方がスゴイきれい。

で、次の写真が私が一番観音寺城で驚いたポイント。平井氏屋敷跡の虎口の写真3連発です。

↑平井氏屋敷から池田氏(落合氏)屋敷への出口。


↑池田氏(落合氏)屋敷側から平井氏屋敷の入口の虎口


↑池田氏屋敷の石垣

こんなに大きな石垣が組まれているとは、この方向からの敵の侵攻を想定していると思われます。つまり本丸の守りの最前線は平井氏屋敷だったということです。それだけ六角氏の中で平井氏が重臣だったということですね。



さて、平井氏屋敷跡から池田氏屋敷を通って大石垣まで向かいます。

こちらにもちょくちょく石垣が見られ、観音寺城内で頻繁に石垣が使われていたことがわかります。

この観音寺城の石垣は大きな石垣でかなり見応えがあります。群馬県の金山城の石垣もかなり緻密で素敵でしたが、この石垣も見に来た甲斐がありました。




 大石垣を目指していたら、いつもまにか池田氏屋敷跡まで来ていたようです。この曲輪には大石垣方面ではない虎口があり、その石垣がこちらです。

その虎口の先はかなり荒れ果てているので行きませんでしたが、池田氏屋敷跡を取り囲む石垣を写真に撮りました。かなり立派な石垣です。

 この虎口が池田氏屋敷の大石垣側の虎口です。石垣はありますが、先ほどの虎口よりは遺構は失われています。そしてここから大石垣まで5分というので、もちろん行ってみます。


この池田氏屋敷からとなりの安土山がハッキリ見えます。やはり安土城ができた時には、この観音寺城を完全に廃城にしないと防衛上問題がありそうです。

大石垣はどこにあるのか…よくわかりません。とても大きな石があったので、かつてここに大きな石垣があったのか…程度にしかその時には思いませんでした。

 その崖下には、幟旗が見えました。そして時折東海道新幹線の走行音が聞こえます。観音寺城をアピールするために作ったのでしょう。その風景に満足した私は、大石垣を発見することができずに、私は観音寺城を後にしました。大きな石垣を見て興奮してもう大丈夫と満足してしまったことが原因である。


 そして、これも安土城郭資料館で購入した『観音寺城跡 埋蔵文化財活用ブックレット11(近江の城郭6)』(滋賀県教育委員会)のブックレットみると、私は訪れた見た範囲は」観音寺城の4割程度しか見ていないことに気がついた。
 やはりその原因は、観音寺城の整備があまり追いついていない(案内看板や倒木や草木の整理)という事情がある。例えば、観音正寺の参道途中にあった「佐々木城跡107m」の案内版は、観音寺城の付城ではなく、

この赤い部分であった。『観音寺城跡 埋蔵文化財活用ブックレット11(近江の城郭6)』によると、この部分の伝三国丸という曲輪には平井氏屋敷のような立派な石垣があると写真に載っていた。訪れなかったことを後悔。


 さらに、合計3箇所の曲輪も見逃していた。1つは「大石垣」。私が幟旗をみて断念した先に、平井氏屋敷のような大きな石垣があった。2つ目は、大石垣の先にある伝木村丸にある埋門。埋まってしまったのか、最初から石垣として想定されていたのか大きな石垣穴が開いている。3つ目は、目加田屋敷の近くにあった伝布施淡路丸。大きな平坦な曲輪があったようだ。
 このような見逃しを考えると、観音寺城はまたいつか再訪したいと思う。しかし、それにしてももっと看板を充実させ、整備をして欲しいと思った。そうすれば見逃すこともなかったのに…

 と思って家に帰って安土城郭資料館で購入した『観音寺城物語2』の3ページを見ると「今、新幹線から見える石垣と幟旗は、平成30年にかけて5年近く、地元の企業やボランティアの方々と整備してきた風景である。」と書かれていた。

 やっぱり出来るだけの地元の城愛好家によって整備はされているんだと実感。それにしてももうちょっと自治体の支援によって本格的に整備をしてほしい。観音寺城はおそらく観音正寺によって所有されている城なのだろう。やはりお寺が本業なので、そこまで城の整備にまで手も回らないのではないか。であるならば、県や市が公有地化して本格的な整備をしてほしい。

 すると、もっと新幹線から見える幟旗を見てきた観光客が満足するのではないかと思った。これだけの立派な石垣があるのに、とてもその魅力を生かせていない観音寺城は、とにかくもったいない史跡であり、もっと魅力を伝えたい城だと私は思った。


墨俣城訪問記

2020-02-11 04:44:00 | 歴史

今回の「義綱城館訪問記」は岐阜県大垣市の「墨俣城」をお送りします。
 墨俣城は長良川の近くにあり、道が難しいです。近づいたと思っても徒歩では行けても一般のお店の駐車場になったりと、気をつけましょう。写真の橋の前にくるとあとちょっと。この写真を左に車で30m行くと、

「さい川さくら公園駐車場」が、「墨俣一夜城」(大垣市墨俣歴史資料館)の駐車場となっていいます。



墨俣城は巨大な長良川のほとりにあります。そしてさらにもっと近くに

犀川と新犀川という2本の川があります。新犀川の洪水被害を防止するために作られ、この周辺は常に長良川や犀川の洪水被害に悩まされてきたようです。そこで城の前にある橋の側に、

犀川調整樋門などがあり、その門扉が展示されています。

では墨俣城へ参ります。

で…これが墨俣城…なわけないです。では墨俣一夜城の簡単な歴史を紹介します。

 墨俣城の築城は、1560(永禄3)年に織田信長が美濃攻略のために墨俣に城を築くよう命令したことから始まります。最初は佐々成政、佐久間信盛らに築城を命じたものの、美濃侵攻の足かがりとなる築城を妨害するために、何度も攻撃され、されに地形的に増水の影響もあり、撤退を余儀なくされた。そこで今度は1566(永禄9)年再び墨俣に築城すべく、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)に命じた。


 藤吉郎は、土塁だけの城ではなく、速やかに馬柵や鹿垣を構え防御することで築城可能と判断し、蜂須賀小六や前野将右衛門兄弟、坪内党らの協力の下、2140人の手勢を用意し、斎藤の攻撃を防ぐ一方で築城の準備を進めた。


 墨俣が川に近いことを利用し、木材を川から流し、それを墨俣で組み立て上げる、現代でいうプレハブ工法を実施することにより、馬柵を作り上げた。それ楯に斎藤軍の攻撃を耐え城を完成させたという。
 従って完成した墨俣城はこんな感じであったという。

さらに資料館に模型もありました。

つまり、墨俣一夜城の現在の姿は、単なる現代における資料館なのです。ちなみに正式名称は「大垣市墨俣資料館」です。この模擬天守は、竹下内閣(当時)の「ふるさと創世事業」による1億円を元手に「地域住民の長年の夢であった一般的な城郭天守の体裁を整えた墨俣一夜城(歴史資料館)を建設しました。」とのこと。模擬天守(資料館)の完成は1991年(平成3)年で、当時は平成バブル終焉期でもあり、まだ中世的な城のイメージもあまり一般ではなかった頃。仕方ないと言えば仕方ないのかもしれないが、残念ながら墨俣の本当の姿を現しているとは言い難い。

 しかし、中の展示では先の写真にも使ったように、できるだけ史実から事実を探ろうとしている。

この馬柵は

このように表記されており、史実を意識したもの。この墨俣築城が単なる軍記物の記述だけではなく、一次史料から証明しようという試みもある。

古文書を使用して展示でも実物の墨俣城の築城方法を説明してあり、先に見られた墨俣城のCGの作成となっていると思われる。それだけにもっと中世的にしておけば…と悔やまれる。


しかも模擬天守を作った唯一の良い点は、眺望が良いことである。しかも

 岐阜城(稲葉山城)も肉眼で見ることができる。美濃という国の位置関係を把握するにはとても都合がよい模擬天守かもしれない。
 ここから岐阜城まで車で30分。ここに織田の城を築かれては、相当斎藤氏にとって嫌だったに違いないことが確認できた。

安土城訪問記~主郭編~

2020-02-10 04:44:00 | 歴史

「安土城訪問記~資料館編~」「安土城訪問記~城郭編~」からの続きです。


「伝織田信忠邸」から主郭方面へ向かう階段です。その主郭部分の直前である進行方向左側に、

「織田信澄址」「森蘭丸址」とあります。織田信澄とは、信長の弟で母から寵愛を受け家督を争いをし、信長が誅殺した織田信勝の子。その子は叔父であり父を仇敵でもある信長に仕え、明智光秀の娘をめとったと言う。残念ながら本能寺の変で織田信孝に殺されてしまう。もう一人の森蘭丸とは、晩年の信長の小姓であり、本能寺の変時にも信長に近習して殺されてしまった人物である。この場所も発掘調査はされて居らず、見るからにあまり大きな平坦面なども見当たらないのだが…。



いよいよ城の主郭に入ります。大きな虎口が見えてきます。

 この辺りの石垣をみると、今までのよりも大きな石が使われている。積み方こそ野面積みであるが、その石の大きさを考えると江戸時代の城のようなものである。安土城がいかに巨大な権力を駆使して作られたかが想像できる。そしてこの虎口には「伝黒金門跡」と言われ、大きな江戸時代の城のような門があったと言われるそうだ。


安土城の主郭部分の位置関係を確認できる図面。


虎口すぐ進行方向左にある曲輪。「伝長谷川邸跡」と言われる。織田信長の小姓であった長谷川秀一の事だと思われる。同じ小姓である森蘭丸に比べると本丸に近いのだが、長谷川秀一の方が小姓としてのランクが上だったのだろうか?

ここにある五輪塔は写真のように織田信雄4代の供養塔となっている。


虎口を右に行くと階段を登って二ノ丸へ。ここでも防御が堅い安土城。

その途中「仏足石」と呼ばれる仏を祭る台座を石垣に使っている石が展示されていた。室町時代中期に作られた台座だそうだが、これくらい大きな石であれば石垣に重宝されたのだろう。石垣が崩れて出てきたので、便宜上ここに展示されているそうだ。



二ノ丸はかなりの広さがある。

現在は「織田信長廟」となっている。

二ノ丸の階段を降りる所。降りた先に通路は狭く、かなり安土城を攻略するのは大変そうだ。写真左側が本丸へ続く道。

左の石垣は天主台の石垣。

本丸奥に行くと写真右の石垣が三ノ丸へ続く石垣。本丸より三ノ丸の方が一段高い。その理由は写真左側にある虎口。

写真で奥へ続く通路は封鎖されているが、これが安土城の搦手道(裏道)。ここからの侵入を防ぐために、この搦手門の辺りは、一段高い「伝三ノ丸」と「伝本丸取付台」に囲まれて防御している。


搦手門付近からみた本丸。かなりの広さがある。で、一段低いこの場所が本丸と言われる理由を考えると、おそらく重要な建物があったからだと思われる。それがコレ。

 中庭を挟むこの巨大な建物を説明板では『信長公記』によると天主近くに「一天の君・万乗の主の御座御殿」である「御幸の御間」と呼ばれる建物に「皇居の間」が設けられているとされ、天皇の行幸を計画するために作られたのではないかとしている。で、肝心の信長は一段低い本丸の御殿ではなく、天主台の建物に住んでいたそうだ。


 天主取付台です。写真前方に見えるのが本丸へ下がる階段です。登ると意外と狭いなと感じますが、天主取付台の北側の部分はまだ発掘調査も行われて居らず整備がされていないため狭く感じるようです。


 天主取付台から天主台へ登る階段です。写真右側に工事フェンスがありますが、ここが天主取付台でまた未発掘な部分です。早期の発掘調査を望みます。


天主台には本当に大きな礎石が並んでいます。6階建ての建物を維持するにはこれだけ大きな礎石じゃないと厳しいのも理解できます。やはりかなりの大規模な城だったのだと思います。

天主台の看板をみると今私たちが経っている場所は天主台の地下1階部分と。なるほど石垣が高いのはそこが1階だからかと納得。

天主台からでも安土の景色が一望できます。木々がなければなお見通しが利いたでしょう。ましてや地上6階なら。この景色は織田信長が権力を感じた瞬間と思って間違いないと確信しました。

帰りは同じ道を辿って帰る…とおもいきや、「伝織田信忠邸」を西に行き「総見寺跡」を通るのが帰路だそうです。

 寺跡に行くと、三重塔が見えました。私は「きっと江戸時代に立てられた、総見寺の跡だろうから、早々に見て次の城に行こう」と思っていました。がその思いは見事に裏切られました。

 この説明板を見ると、織田信長が城内に創建させた城であるとあります。当時からあった場所でした。そういえば七尾城にも「安寧寺」があったからやはり武将と仏教は切り離せないものなのだなと思いました。仏教を重んじないと思っていた信長が城内に作らせた寺というのも意外でした。

しかも、本能寺の変後の安土城落城後も焼失しなかったとあってさらにびっくり。1854(嘉永7)年に本堂が焼失し伝徳川家康邸に移るが、三重塔は焼失から守られているようで、かなり古くから現存するようだ。


 1992年(平成4)年に発掘調査に基づく安土城の環境整備が始まり、1998(平成10)年に大手道の整備が完了した。その整備されてからの歴史はまだまだ浅いと言える。1997(平成9)年には搦手道の全ルートも解明されており、その整備がもっとされてほしいと思う。
 一方、「安土城天主 信長の館」でみた安土城の5階6階が復元されているので、安土城の部分復元でもできないかな…と思うが、その予定は全くないのだそうだ。

この復元CGは「安土城郭資料館」の掲示されていたもの。DVDやYouTubeで「絢爛 安土城」で使われているものの一部であるが、このような安土城の復元が実物になったら、観光のメインになると思うし、歴史の聖地になると思うのだが…。


安土城訪問記~城郭編~

2020-02-09 04:44:00 | 歴史


 「安土城郭資料館」「安土城天主 信長の館」を見学して十分事前学習を行ったので、いよいよ安土城へ行きます。


車で安土城とカーナビに入力して案内されたのがここ。総見寺が立てた看板により、ここからは入山出来ないとあり、ここから400m進んでくれとあります。

 駐車場がありました。私が行ったのは平日だったので空いていましたが、駐車場は2つありどちらも無料でした。

 駐車場近くに「城なび館」があります。看板によると「安土山に登る前に寄る」とありますが、VR安土城は「信長の館」で見てきたので、今回は先に城に行きます。



 まだ受付の前ですが、ここからもう大手門の石垣があります。そして大手門にあたる綺麗な切石になっているこの階段にも意味があります。大手門の看板によると、石垣の部分は遺構として検出できたようですが、門の部分は後世の開墾などで遺構が失われたようです。そこで、安土桃山時代にはなかった花崗岩の切石でこの部分を作ることで「築城時の遺構と区別」しているそうです。単に安全上のために作ったものではないことに整備者の心意気を感じます。



大手門から西に行くと虎口がありました。ここにも石垣が使われています。写真の左の石垣の上に小さな別の石垣がありますが、それは下記説明看板によると、

 江戸時代に畑地として使われていた時に作られた石垣だそうで、安土桃山時代のものと比較するためにあえて残したそうです。本当に整備者の心意気を感じます。


西側虎口の上段には大きな礎石建物があったようです。

その西側にはかまどがあったようですが、何度も作り直され、どうやら築城中の大工に食を提供するかまどだったと結論づけられています。



それではやっと受付です。入山料700円を支払っていよいよ安土城の中へ。

安土城と言えばやはりこの大手道の階段。復元によって整備された大手道。「安土城天主 信長の館」で見た「絢爛 安土城」というVRを見ると、この大手道は普通の人は通れず、迎えるはずだった天皇や上客のみが通されたそうです。その普通の人では歩けなかった通路を、現代の一般人が通る感覚。はやりこれが歴史の醍醐味ですね。

大手道の横には大きな排水路が…。安土城は大規模だけに排水を考えないと大雨に対応できません。ここも築城者の計算が見て取れます。


受付入ってすぐ右方向。この辺りが「伝前田利家邸跡」です。

かなりの広さを持っています。

三段の石垣になっているのは、やはり石垣生成技術の未熟な時期だからでしょう。三段の石垣というと七尾城と同じですね。となると七尾城の石垣が「前田利家が作ったもの」と言われる理由もわかる気がします。

 さて前田利家邸の階段にある木柵。注目して欲しいのは木柵ではなく木柵の下部にある横につながる木枠。

これは木樋だそうです。「木樋(もくひ)」とは木の水道管で、これは前田利家邸の洗い場の排水のためと考えられるそうです。木樋と言えば、江戸時代の江戸の上水道。その技術がもうここにも。かなりの技術者が集められている安土城は本当にすごい。


受付から左側にあるのが伝羽柴秀吉邸の曲輪です。写真で見ると石垣が段々になっており、土地がかなり狭いような印象を受けますが、

 看板をみると、かなりの広い土地であることがわかります。しかも上下2段に渡る土地がすべで羽柴秀吉邸となっており、安土城の中でもかなりの地位を持っていたことがわかります。
 下段には、大きな櫓門とその先に厠が、階段を登るとメインとなる主殿の他に台所と櫓があるという巨大な曲輪です。

 下段の廁とその境に、写真のように区画が整理されている箇所があります。この所には塀が設けられて区画が分かれていたと思われます。七尾城にも似たような区画が箇所があります。ますます七尾城と安土城が似ていると思ってしまう。

ここが上段の羽柴邸ですが…

これだけ大きな主殿があったようです。普通の城ならこれが主人の主殿の規模です。

この2段に分かれている曲輪が家臣の邸などとはさすが織田信長が築いた安土城だ…。



 羽柴秀吉邸を出て大手道に戻ると、道が大きく左へカーブしています。そのカーブ手前にある曲輪が、

現在の「総見寺の仮本堂」です。お寺の鐘もあります。仮本堂は江戸時代からあるようなので、このあたりは発掘調査は行われていないようです。


 大手道がカーブする手前の進行方向左側にあるこの場所は「伝徳川家康邸」と呼ばれる。発掘調査はされていないもよう。しかし、安土城の歴史によると、1854(嘉永7)年に総見寺が火災で焼失すると「伝徳川家康邸」に再建されたとありますが、こちらには何もありません。徳川家康邸は、大手道を挟んで2箇所だったのでしょうかね?


 大手道は「伝徳川家康邸」から曲がりくねっている。これは防戦上の理由であろうが、曲がりくねった上に曲輪がないのがなぜだろう。もしや防戦上の理由ではない?


 大手道には頻繁に「大手道の石仏」という表示がある。説明板には築城に要した石は周辺の山から採取したものに加え、墓石や石仏も集められた。本来は信仰の対象ではあるが、築城の経緯からあちこちに「石仏」の表示と共に展示されている。安土城の築城が急がされたのと、信長がそういう仏罰を気にしなかったということがわかる。


 大手道の階段には、写真のようにブロックが置かれているところがある。階段の高さがマチマチで歩きにくいことを解消するためである。階段の大きさがマチマチなのは、防戦上敵が侵入しにくいように設計していると言われる。


曲がりくねった大手道は「伝織田信忠邸」に続いている。その信忠邸の少し手前の進行方向左側にあるのが「伝武井夕庵邸」。発掘調査はされていないよう。武井夕庵とは、元々は美濃斎藤氏に使えていた茶人。その後信長に仕え右筆となり、武田や毛利との外交を主導していたようだ。


 曲がりくねった大手道の行き着く先の「伝織田信忠邸」。織田信忠は本能寺の変の直後に安土城を攻められて亡くなった織田信長の嫡男。写真を見ると通路の一段上に石垣が組まれており、塀があったと思います。

ここから北に行くと主郭。西に行くと当時の総見寺のあった場所へ行く要所。写真は主郭方面です。

「安土城訪問記~主郭編~」へ

安土城訪問記~資料館編~

2020-02-08 11:25:00 | 歴史


 2008(平成20)年にちらっとみて、時間の都合で登城しなかった安土城。訪れた時は滋賀県蒲生郡安土町だった。2002(平成14)年に五個荘町、能登川町、安土町の合併で「安土市」となる予定であったが、その名称により市民の反対が多く頓挫する。そして2010(平成22)年に近江八幡市と合併することになった。歴史ある地名である安土という自治体名は消滅してしまった。

 そんな安土が一番脚光を浴びたのが、安土城があった時期。中学校の歴史の教科書にも記述があるほど。誰もが知っている城である。今回は安土城の資料館や城跡を見ていきます。


 私が城館を訪れる時には、まず資料館などがあれば先に行っています。それは見るべき箇所が資料館を訪れることによって明確にわかり、見るべきスポットを見逃すことが少なくなると思うからです。これも人の好みで、城館を訪れてから解説を見たい人もいるでしょう。ぜひ自分のスタイルにあった見学を!



JR東海道本線の安土駅徒歩30秒にある「安土城郭資料館」。

ここの売りはなんといっても安土城の復原模型です。

このすごさは…

なんと可動式で模型の内部が見られることです。

 安土城の1579(天正7)年に完成したものの、本能寺の変が起きた1582(天正10)年に僅か3年で焼失した、有名であるが命短き城である。その全貌は『信長公記』所収の「安土山御天守之次第」で知られていたが、近年加賀藩作事方御大工池上家文書中に「天守指図」という新史料によって、復原的な考察が可能になった。

それでも学者によって多少差はあるが、この資料館の復原模型は内藤昌氏によって考案されたものを基本にしている。



 この模型は観音寺城の全体模型である。そして写真の左奥にある小さな山が安土山であり、この資料館で取り上げている安土城がある山である。この地形模型で見るとおり、六角氏の本拠城であった観音寺城と、織田信長が大規模な拠点として作らせた安土城は地理的に隣接している。普通、近隣に大きな山があるとそちらに拠点を築きたいものだが、あとの城郭編でお伝えするように、信長の城作りはやはり中世的な防御面を重視した観音寺城より、近世的な象徴性を重視したと城と言える。



 この安土城の絵図もこの資料館にあるものです。1581(天正9)年にイエズス会の宣教師ヴァリニャーノに贈った屏風絵の複製です。他にも「安土城下町」「京都」「長崎」「マカオ」「リスボン・ローマ」の様子が描かれたものも展示されています。複製とはいえここまで近くで見られるのは嬉しいなと感心していました。

あと、個人的に興味深かったのは、安土城の発掘の様子。

発掘前の大手道の様子。寺の石垣でまったく安土城の面影がありません。


それが発掘調査がされたことにより、大手道が発掘されます。所々石が抜けていますが、それを復原すると…


このように現在見ることができる姿になります。文献調査だけでなく、発掘調査でわかることもかなり膨大なものがあると気づかされます。この3つの写真で比較すると、「伝徳川家康邸」の石垣は、幕末に総見寺(総は旧字体・文字化けするので常用漢字を使用しています)が築いたものが現在でも一部見られることがわかります。つまり、大手道をふさいでいたかつての寺の石垣は、安土城跡の石垣を延長したものなのか、それとも手つかずとしてこの寺の石垣を撤去していないのか…知りたいなぁ…。


この資料館でも、安土城や観音寺城の資料が売っています。訪れた年は2020(令和2)年なので、大河ドラマ「麒麟がくる」(明智光秀が主人公)の書籍も多く取り上げられていました。こちらでいくつかの安土城と観音寺城の資料を購入。


では、資料館を後にし、次の「安土城考古博物館」へ。車で移動する途中の前方には…

左が安土山で右が観音寺山です。写真は、歴史お友達「戦国放題こたつ城」(http://kotatu.jp/)様のこたつ城主様ばりの2枚の写真を合成させてみました。


博物館周辺は埋蔵文化財収蔵庫やもう一つの目的地である「安土城天守信長の館」があり、公有地化されている一帯であることがわかります。

では目的のひとつ博物館へ…

平日ではありますが、やけに人が少ない…?

やられました…展示替えのために休館日でした。仕方なし…。見たかった。

では気を取り直して、

ここから徒歩1分で行ける「安土城天守信長の館」へ。

良かった!こちらは開館していました。


ただこちらのメインとなる、安土城の5層・6層の建物ですが、著作権のため個人的な写真撮影は可でも、ネット掲載はダメだそうです…。どこか一箇所でも写真撮影可でネット公開できればインスタやツイッターなどで広がるでしょうが…難しいですね。


 なぜこんな大規模の復原を行ったのか。それは1992(平成5)年にスペインのセビリア万博の日本館のメイン展示として作られたものを、そのまま廃棄するなら…と輸送し1994(平成6)年に日本で再構成して展示したとのことで納得。このような豪華な建物の一端でも見られるのは、万博のおかげなのですね。


 安土城を作っていた当時は機械もなく、この規模の築城はとても大変だっただろうな…と思います。しかも普請に対する作業賃金は驚くほど安かったとも聞きます。本当に現代に生まれて良かった。


もちろん安土城の天主閣の豪華さにも目をひきましたが、私が特に興味をもったのはこの料理。

「信長のおもてなし」とは有名で、信長自ら客人の給仕をすることもあったと言います。

この献立は「天正十年 安土御献立 復元レプリカ」だそうです。この献立は武田家を滅亡させた折にその功をなした徳川家康や穴山梅雪などを饗応した時の献立で、『続群書類従』を基に復元されたものだそうです。

 この饗応料理ですが、能登では畠山義綱が長家の屋敷に御成した時のもてなし料理が載っていますが、それとの共通点も多く、この「信長の館」の展示をみてその雰囲気を食品サンプルで知ることができました。書籍で『信長のおもてなし―中世食べもの百科 (歴史文化ライブラリー 240)』というものがあるようで、ぜひ購入して食についても研究して、能登での食文化理解につなげたいと思いました。



 ここにもお土産や書籍はありましたが、意外にも「安土城郭資料館」で売っていてこちらにはないものもあります。やっぱり出会った書籍は、買いたい時に買う方が良いようです。

それともう一つ。写真はないのですが、この資料館でとても有意義なものが「絢爛 安土城」というVRによる安土城の動画です。ダイジェスト版のみはYouTubeでも見れますが、こんなに壮大な城だったのかと本当に圧倒されます。そして最近のVR技術のすごさにも驚きます。資料館の動画なんてたいした事無いでしょう?と思ってもぜひこれは見て欲しいです。

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