畠山義綱のきままな能登ブログ

畠山義綱が見てきた史跡を紹介します。
時々、経済や政治などもつぶやきます。

川手城と加納城 訪問記

2020-02-07 21:42:00 | 歴史

 岐阜県下川手にある斉美高校。その一角にあるのが「川手城」。この城はかつては革手城と呼ばれ、1353(文和2)年に土岐氏の3代目当主であり美濃・伊勢・尾張の3国の守護であった土岐頼康が築いたという。その立地は旧木曽川と現荒田川の地の利を生かした城である。そしてこの頼康以来、11代土岐頼芸まで土岐氏の居城であった。



 1494(明応3)年の船田の乱によって火災に巻き込まれ、その後に斉藤道三が岐阜城に移る事によって廃城となった。普通は廃城となってもそれなりに遺構は残るが、川手城の遺構は写真でみる限り全くない。斉美高校によって開発されたわけでもなく、その理由は次にあげる「加納城」の影響があると言われる。



 川手城の看板から徒歩5分の場所にある「加納公園」。ここはかつて加納城と呼ばれていた城でした。

公園は、写真に見られるようにかつての立派な石垣と人工の堀に囲まれています。

公園の内側のへりには土塁になっており、城跡を感じさせるものですが、中には遺構らしきものはなにもありません。私が訪れた時には犬をつれて散歩する人がかなりいました。


石垣や土塁以外なにも遺構はないのですが、しっかり発掘調査も行われるようです。

 公園の看板を見ると、なんと「国指定史跡」でした。1601(慶長6)年に徳川家康が豊臣氏への警戒から家臣の奥平昌信に築城を命じたことが始まりと言われる。築城を急がせたため、先に紹介した近くの川手城の土砂を流用したため、川手城の遺構はすべて失われてしまったという。奥平氏の城であった故に、江戸時代の加納城は譜代の城として重宝され、明治維新で解体を迎えた。


 公園内の看板によると、公園は加納城の本丸部分のみとなっているが、江戸時代の御殿は二ノ丸にあったようで、

よく見ると、公園外も公有地化されており、発掘調査が行われているようだ。すべてが公有地化されているわけではないが、陶磁器などの貴重な出土品もあり、その内二ノ丸も含めた歴史公園として整備されるのではないかと思われる。

 川手城も加納城も簡単に訪れることができる城であるので、車であれば加納城の駐車場に駐車した上で川手城も簡単に訪れることができます。