シテ「さりとては占に偽よもあらじ。鴬に遇う言葉の縁あり。又卵の中の子規とも云へり。時も卯月程時も合ひに合ひたり。や。今啼くはほととぎすにて候か。
子方「さん候ほととぎすにて候。
シテ「面白し面白し。当面黄舌の囀。鴬の子は子なりけり子は子なりけり。不思議や御身はいづくの人ぞ。
このへん、シテ自身が予期しない方向に話が進んでゆき、自らがそれに巻き込まれてゆく過程をうまく表していて興味深いと思います。
シテの歌占いの結果、子方がすでに父に会っている、と判断した理由は、まず「鴬に遇う言葉の縁あり」すなわち「鶯」は「おう」と音読みするわけで、彼は少なくとも近い未来に、尋ねる人に行き会う事を示している、というわけです。次の「卵の中の子規とも云へり」はちょっと判りづらいですが、もちろん子方が引いた「鴬のかひこの中の子規。しゃが父に似てしゃが父に似ず」を言っているものでしょう。ここは原歌「鴬の 卵の中に 霍公鳥 独り生れて 己が父に 似ては鳴かず 己が母に 似ては鳴かず」を想定した方がわかりやすいと思いますが、育ての親としての鶯は、「義理の母親」のような見立てになるのだと思います。「義理の母には似ず、実の父に似ている」。。あたりまえなのですが、当人にとってみれば とんでもなくややこしい親子関係。「卵の中の子規」とは鶯の巣の中、つまり他人の中に紛れ込んで行方がわからなくなった本当の子、という意味でしょう。この場合はそれがついに露見する、その日が近づいている、というような意味だと思います。
そしてまた放浪の辻占い師であるシテがたまたまこの加賀国白山のふもとを訪れ、そしてまた子方がそのシテに歌占いを所望したのは、まさにこの歌が詠んでいるその季節~四月でした。「時も卯月程時も合ひに合ひたり」。。どうやらシテにも不思議な巡り合わせの予感が出てきたようです。そこに追い打ちを掛けるように聞こえるホトトギスの鳴き声。「や。今啼くはほととぎすにて候か」。
子方にもその声は聞こえ、今鳴き声を響かせたのはホトトギスである事が疑いなくなると、シテは奇妙な感慨に襲われます。「面白し面白し。当面黄舌の囀」。目の当たりに聞こえるまだ若いホトトギスの鳴き声。しかしその美しい囀りは、まさに美声の母。。鶯ゆずりの才能なのでした。シテは思わず「鴬の子は子なりけり子は子なりけり」と口ずさみます。これは『今鏡』巻十にある以下の説話に見える歌です。
菩提樹院といふ寺に、ある僧房の、池のはちすに、鳥の子を生みたりけるを取りて籠に入れて、飼ひけるほどに、鶯のこより入りて、ものくゝめなどしければ鶯の子なりけりと、知りにけれど、子はおほきにて親にも似ざりければあやしく思ひけるほどに、子のやうやう大人しくなりて、ほとゝぎすと、鳴きければ昔より、言ひ伝へたる古きこと、まことなりと思ひて、ある人詠める、「親のおやぞ今はゆかしき郭公はや鴬のこは子也けり」と詠めりける。万葉集の長哥に鶯のかひこの中のほとゝぎす、などいひて、このことに侍るなるを、いと興あることにも侍るなるかな。
この歌に「親のおやぞ今はゆかしき郭公」とある言葉に引かれたのでしょう、シテは最初の「当面黄舌の囀。鴬の子は子なりけり」までは不思議な一致を興じる程度の風情ですが、にわかにそれが自分の身の上に降りかかった出来事である事を察知し、「子は子なりけり。。」と歌をかみしめて復唱します。このところ、右へウケながら弓を持ったまま両手で打ち合わせる型が「替エ」としてあるのですが、歌占いの場面にはシテはほとんど型がないので、ほぼ みなさんこの型はされておられるように思いますし、ぬえもこの型はする予定です。
ただ、打合せという型は「ハッと気がついた」とか「疑問が一気に氷解した」というような、意識としてかなり強いインパクトを受けた、という場合に使われる型なのです。ぬえはこの場面はまだそこまでにシテの気持ちは至っていないと思いますね。上に書いたように「子は子なりけり。。」と歌をかみしめながら、自分が見落としていた事実。。まさか自分の事ではあるまいか? ということに気づく、その「まさか。。」という気持ちでしょう。だからこそ、その直後 子方に「不思議や御身はいづくの人ぞ」と尋ねるのです。こう考えると、この打合せは難しいですね。気を抜いてフワリと。。というわけでもなく、バシッと両手を打ち付けるわけでもなく。シテも混乱していて、まさに「まさか。。」という感じの打合せ。。できるかなあ。
子方「さん候ほととぎすにて候。
シテ「面白し面白し。当面黄舌の囀。鴬の子は子なりけり子は子なりけり。不思議や御身はいづくの人ぞ。
このへん、シテ自身が予期しない方向に話が進んでゆき、自らがそれに巻き込まれてゆく過程をうまく表していて興味深いと思います。
シテの歌占いの結果、子方がすでに父に会っている、と判断した理由は、まず「鴬に遇う言葉の縁あり」すなわち「鶯」は「おう」と音読みするわけで、彼は少なくとも近い未来に、尋ねる人に行き会う事を示している、というわけです。次の「卵の中の子規とも云へり」はちょっと判りづらいですが、もちろん子方が引いた「鴬のかひこの中の子規。しゃが父に似てしゃが父に似ず」を言っているものでしょう。ここは原歌「鴬の 卵の中に 霍公鳥 独り生れて 己が父に 似ては鳴かず 己が母に 似ては鳴かず」を想定した方がわかりやすいと思いますが、育ての親としての鶯は、「義理の母親」のような見立てになるのだと思います。「義理の母には似ず、実の父に似ている」。。あたりまえなのですが、当人にとってみれば とんでもなくややこしい親子関係。「卵の中の子規」とは鶯の巣の中、つまり他人の中に紛れ込んで行方がわからなくなった本当の子、という意味でしょう。この場合はそれがついに露見する、その日が近づいている、というような意味だと思います。
そしてまた放浪の辻占い師であるシテがたまたまこの加賀国白山のふもとを訪れ、そしてまた子方がそのシテに歌占いを所望したのは、まさにこの歌が詠んでいるその季節~四月でした。「時も卯月程時も合ひに合ひたり」。。どうやらシテにも不思議な巡り合わせの予感が出てきたようです。そこに追い打ちを掛けるように聞こえるホトトギスの鳴き声。「や。今啼くはほととぎすにて候か」。
子方にもその声は聞こえ、今鳴き声を響かせたのはホトトギスである事が疑いなくなると、シテは奇妙な感慨に襲われます。「面白し面白し。当面黄舌の囀」。目の当たりに聞こえるまだ若いホトトギスの鳴き声。しかしその美しい囀りは、まさに美声の母。。鶯ゆずりの才能なのでした。シテは思わず「鴬の子は子なりけり子は子なりけり」と口ずさみます。これは『今鏡』巻十にある以下の説話に見える歌です。
菩提樹院といふ寺に、ある僧房の、池のはちすに、鳥の子を生みたりけるを取りて籠に入れて、飼ひけるほどに、鶯のこより入りて、ものくゝめなどしければ鶯の子なりけりと、知りにけれど、子はおほきにて親にも似ざりければあやしく思ひけるほどに、子のやうやう大人しくなりて、ほとゝぎすと、鳴きければ昔より、言ひ伝へたる古きこと、まことなりと思ひて、ある人詠める、「親のおやぞ今はゆかしき郭公はや鴬のこは子也けり」と詠めりける。万葉集の長哥に鶯のかひこの中のほとゝぎす、などいひて、このことに侍るなるを、いと興あることにも侍るなるかな。
この歌に「親のおやぞ今はゆかしき郭公」とある言葉に引かれたのでしょう、シテは最初の「当面黄舌の囀。鴬の子は子なりけり」までは不思議な一致を興じる程度の風情ですが、にわかにそれが自分の身の上に降りかかった出来事である事を察知し、「子は子なりけり。。」と歌をかみしめて復唱します。このところ、右へウケながら弓を持ったまま両手で打ち合わせる型が「替エ」としてあるのですが、歌占いの場面にはシテはほとんど型がないので、ほぼ みなさんこの型はされておられるように思いますし、ぬえもこの型はする予定です。
ただ、打合せという型は「ハッと気がついた」とか「疑問が一気に氷解した」というような、意識としてかなり強いインパクトを受けた、という場合に使われる型なのです。ぬえはこの場面はまだそこまでにシテの気持ちは至っていないと思いますね。上に書いたように「子は子なりけり。。」と歌をかみしめながら、自分が見落としていた事実。。まさか自分の事ではあるまいか? ということに気づく、その「まさか。。」という気持ちでしょう。だからこそ、その直後 子方に「不思議や御身はいづくの人ぞ」と尋ねるのです。こう考えると、この打合せは難しいですね。気を抜いてフワリと。。というわけでもなく、バシッと両手を打ち付けるわけでもなく。シテも混乱していて、まさに「まさか。。」という感じの打合せ。。できるかなあ。