ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

『歌占』。。運命が描かれる能(その22)

2008-06-13 01:44:21 | 能楽
クセとなってもはじめはシテにほとんど型はなく、正面を向いて床几に掛かったままです。わずかに「暫く目を塞いで。往事を思へば」のあたりで心持ちをする(型附に記載はないのですが)のと、「指を折つて。故人を数ふれば」と左手を出して指を折って数える型がある程度。最初の上羽の直前にようやくシテは立って、すぐに扇を拡げます。

地謡(クセ)「須臾に生滅し。刹那に離散す恨めしきかなや。釈迦大士の慇懃の教を忘れ。悲しきかなや。閻魔法王の。呵責の詞を聞く。名利身を扶くれども。未だ。北邙の煙を免れず。恩愛心を悩ませども。誰か黄泉の責に随はざる。これがために馳走す。所得いくばくの利ぞやこれに依つて追求す。所作多罪なり。暫く目を塞いで。往事を思へば。旧遊皆亡ず。指を折つて。故人を数ふれば。親疎多くかくれぬ。時移り事去つて。今なんぞ。渺茫たらんや人留まりわれ往く。誰か又常ならん。

このあたりはとくに語釈の必要もないと思いますが、「名利身を扶くれども」~「これに依つて追求す。所作多罪なり」は少し分かりづらいかも。ここは「名声や利益といったものは現世でこそ我が身を助けるけれども、誰もいつかは北邙(中国の火葬地)の煙となることを免れ得ない。恩や愛に縛られて起こる妄執は我らの心を惑わせるけれども、誰かあって死に至る苦しみに遭わない者とてない。それなのにこれら(現世での名声や利益)のために人は奔走している。それによって得た所得など、どれほどのものになろうか。また人はこれ(恩や愛)に執着して相手を追い求める。その所行は自ら多くの罪を作っていることになるのだ」。。という意味になります。ん~~、なんてクールな。

子が親に感じる恩は、シテ自身さきほどのツレへの歌占いで「こゝにまた父の恩の高き事。高山千丈の雲も及び難し。されば父は山」とまで言及しておきながら、ここでは「でも、そんなものに執着するのは“多罪”」なんて言ってます。だからこの曲では離ればなれになった親を子方の方が探しているのに、シテは自分では子どもや家族の事追い求めるどころか、その心配さえな~んにもしていませんね。結局シテは子方と巡り逢う、つまり再び恩愛の妄執の世界に戻ってしまうわけだけれども、しかし、じつは彼は、自分で家族への恩愛に縛られて、それを追求した結果として再会を果たしたわけではないんです。我が子の幸菊丸の方が自分を探し当てたから再会したので、しかもシテはその再会を「神の御引き合はせ」と判断して、はるばる伊勢から加賀まで自分を尋ねて旅をしてきた我が子の苦労や努力をほめたり、労ったりする事さえしていないですね。

「神の御引き合はせ」であるならば、それは神の意志。恩愛の追求の結果ではない親子の再会であるから、シテはそれを受け入れ、我が子を抱きしめる事ができました。ん~、こんな父じゃ家に帰ってからもいろいろ大変だろうなあ。。子どもが一人で父を尋ねているのに母がそれに付き添っていないのも、あながちその辺が理由だったりして。

でも、シテは神子であって、神と人間の中間に位置するシャーマンです。ストイックなその生き方には ぬえはどこか共感を持ちますね。そうだ、能楽師を含む芸能者も、もとは神子に近い存在と考えられてきていました。だから平気で神にも鬼にも変身することが違和感なく行えるのです。舞台という空間、面という憑代、扇という神具が揃い、沐浴潔斎精進する気持ちがいつも備わっているのが条件ではありましょうが。

これよりシテは立ち上がって、定型のサシ込、ヒラキ、左右をして正面へ打込(左右は略しても可)、扇を拡げて上羽を謡い出します。