ぬえの能楽通信blog

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『歌占』。。運命が描かれる能(その23)

2008-06-14 00:58:49 | 能楽
今日は稽古能で『歌占』を舞う機会があり、例の ぬえ所蔵の「邯鄲男」を使ってみました。じつは数日前にすでに師匠の稽古を受けていまして、そのときは直面で勤めたのです。直面の場合と「邯鄲男」を掛けた場合と。。効果の差はどうかなあ。感触としてはそれほど違いは起こらないようにも思いますが(それはまた不思議なことではありますが)、ずっと稽古は直面を想定して組み立ててきたので、面を掛けるとそれとはちょっとタイミングが狂ってきますね。当たり前ですが。やっぱり面を掛けると直面の場合よりも微妙に型が遅れます。これで装束が着くと、またちょっと型が遅れるのです。さてどうしたものか。。

シテ「三界無安猶如火宅(上扇)。
地謡「天仙尚し死苦の身なり(大左右)。況んや下劣。貧賎の報においてをや。などか其罪軽からん(正先へ打込ヒラキ)死に苦を受け重ね(身ヲカヘ)業に悲しみ猶添ふる(ヒラキ)。斬鎚地獄の苦しみは(右へ廻り)。臼中にて身を斬る事截断して(常座にてヒラキ)。血狼藉たり(左足拍子)。一日の其のうちに(行掛り)。万死万生たり(サシ廻ヒラキ)。剣樹地獄の苦しみは(正へ出)。手に剣の樹をよどれば(下がりながら扇を左手に取る)。百節零落す(角へ行き右に小さく廻り)。足に刀山踏むときは(ノリ込拍子)。剣樹共に解すとかや(正へ直し)。石割地獄の苦しみは(左へ廻り脇座より大小前へ至り)。両崖の大石もろもろの(小廻り、角の方へ出)。罪人を砕く(中へ下がりながら両手を打合せ)次の火盆地獄は(ツレの方へ扇を出し)。頭に火焔を戴けば(正へヒラキながら扇を頭の上に上げ)。百節の骨頭より(右へ廻り大小前より正へ行掛り)。焔々たる火を出す(ユウケン扇しながらヒラキ)。ある時は(サシ)。焦熱大焦熱の(角へ行き右へ小さく廻り)。焔に咽び(巻込扇にて顔に当て)ある時は紅蓮大紅蓮の(左へ廻り中にてもう一つ廻り)氷に閉ぢられ(正へズンと下居)。鉄杖頭を砕き(扇を頭の上まで上げ倒し)。火燥足裏を焼く(立ち上がり、左右、打込)。
シテ「飢ゑては。鉄丸を呑み。(ヒラキ)
地謡「渇しては(大左右)。銅汁を飲むとかや。地獄の苦は無量なり(正先へヒラキ)餓鬼の。苦しみも無辺なり(右へ廻り常座へ行き)。畜生修羅の悲しみも(ツレへ行掛り、胸ザシにて出)。我らにいかで優るべき(ヒラキ)。身より出せる科なれば(正へサシ)。心の鬼の身を責めて(角にてカザシ扇)。かように苦をば受くるなり(左へ廻り大小前へ行き)。月の夕べの浮雲は(抱え込み扇にて右上を見上げ)。後の世の迷ひなるべし(左右、ツレへ向き)。

クセでは「地獄の曲舞」の名の通り、さまざまな責め苦が罪人に加えられる様子が描かれます。難解な語句としては「手に剣の樹をよどれば。百節零落す」(剣の樹にすがって登ろうとすれば節々から身体が裂けてあたりに散る)、「足に刀山踏むときは。剣樹共に解すとかや」(刀の山を超えようとすれば剣の樹木に触れたとたんに身体はバラバラに裂ける)。。といったあたりでしょうか。

ところでこのクセの最後の文章「月の夕べの浮雲は。後の世の迷ひなるべし」は、クリの直前の地次第の文句と一致します。このように地次第とクセの終末部が同じで、クセも「二段グセ」(上羽が二カ所ある)なのが曲舞の作詞としては本式の作法なのです。「本式」と言っても、実際には能の中でこの作法に則っている曲は『山姥』や『杜若』などのほんの少しの曲だけで、その上これらの曲は、ほかの曲と比べて特長的に「本式」の曲として崇められる曲とは言い切れないのが実情ですけれども。。

二度目の上羽(二ノ上羽)は定型として、直前に打込の型をしておいて、ここでは謡いながら左足拍子を踏むのですけれども、この曲には替エの型がありまして、それによればヒラキながら扇を両手で顔の前で持ち上げて「飲む型」をします。これは臨場感がある良い型で、今回は ぬえもこちらの型で勤めてみようと思っています。