ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

第14次支援活動<気仙沼>(その6)~東新城オレンジ…会食~出会った人々

2013-06-27 06:46:48 | 能楽の心と癒しプロジェクト
東新城オレンジの落成式は無事におひらきになり、引き続いて会食となりました。

いまだ紋付のままで式典の写真を撮りまくっていた ぬえもここで着替え。菅原気仙沼市長さんが わざわざ ぬえの控室にご挨拶に見え、名刺を交換させて頂きました。

さて会食にお邪魔させて頂きましたが、いろんな話を伺えて楽しい食事でしたね~。「じぇじぇ」とは聞いたことがない、こちらでは「ばばばっ」って言うんですよ、とか。。「ネットワークオレンジ」に在籍する「エッグ」の子より抹茶のサービスも。彼らはここでお茶や絵画なども先生について習っているんですって!



さてこの会食で会った方の中でも印象的だったのは、ご主人が遠洋漁業の船乗りさんという奥さまがおられて。

遠洋漁業というと、一度出航するともう1年間も帰ってこないお仕事。奥さまはその間ずっと一人でおうちを守るのです。奥さまは「何でも自分で決めなければならないんですよ」とおっしゃっておられました。そりゃご主人と連絡を取る手段はあって、それは「衛星電話」を使うのだそうですが、そうそう毎日のように電話を掛けられるわけでもなく、時差もあるし。。「ご主人からは『お前に任せる』と言われているんですが。。一人で決断しなきゃならない場面もあって、いつもこれで正しかったのか、と心配になるんですよ」とおっしゃっていました。

で、お話しでスゴかったのは震災のとき。気仙沼では停電もあったし、混乱していたので、ご主人と衛星電話でお話をしたのは数日も経ってからのことだったのだそうです。ご主人も航海中であっても当然震災の情報は入っていたでしょうから、気が気でなかったでしょうね~。。

そしてもちろん震災があったからといってご主人だけ船から下りて日本に帰るということはできず。。そうしてご主人が気仙沼に帰ってきたのは、震災から半年後のことだったのだそうです(!)。半年。。その頃 ぬえは石巻で活動していましたが、その上演の日に ぬえらがはじめて当地にやって来たと誤解された住民さんから「今ごろ来ても何もわからんじゃろう。。」と言われたのを思い出します。それぐらい急ピッチでガレキの撤去などが進められていたわけですが。。いや、今から考えれば震災から半年後では、まだまだ復興は進んでいるとはいえない状況だったとは思いますが、いずれにせよ半年間も郷土の被害を心配しながら船に乗り続け、ようやく気仙沼に帰ったときのお気持ちはいかばかりのものだったでしょう。。

さて、三々五々お帰りになる方もあったので、ぬえも東新城オレンジを失礼することに致しました。この日は3日後に活動させて頂くことになっている仮設商店街「鹿折復幸マルシェ」にお邪魔してご挨拶し、公演の宣伝のためにポスターを貼らせて頂いく予定になっていたのです。

東新城オレンジの外に出たところで、それでも何人の方とお話し。まずはこの日の ぬえの上演に感想を話しかけてくださった若い男性。お名前を聞いて、それが気仙沼大島に多い苗字だったもので、その旨を伺うと、やはり大島の方でした。この人のお話もスゴかった。。

震災当時は本土の方の気仙沼市街におられたのですが、大島に帰れたのは4日後のことだったそうです。当時大島に渡る定期航路のフェリーはまだ動いておらず、フェリーが運航しない夜などに本土と大島を結ぶ臨時船の「ひまわり」がようやく運行を再開したばかりの頃だと思いますが、この方が乗ったのは小さな動力がついたボートだったそうです。「ひまわり、いいな~」と思いながら、ボートがはね上げる波しぶきにずぶ濡れになりながら大島に渡ったのだそう。

で、大島に着いてみると消防団の方から家族の無事を聞いたのですが、すぐさま「山へ行け」と指示を受けたのだそう。それは当時、大島に漂着したガレキの炎が島に燃え移って、島の北側の3分の1にもあたる大きな山。。亀山が大規模な山火事を起こしていたからでした。一時は「全島避難」まで取りざたされたほど事態は深刻だった山火事に、この方も対決されていたのでした。。

続いて先日ご紹介した、「ネットワークオレンジ」さんの手助けもあって起業された何人かの方とお話しして、こちらは それぞれに技能を持った方々です。ぬえらプロジェクトの活動の話になって、今後仮設住宅でなどでご一緒に活動できるのではないか? という話題になりました。ぬえたちも、能の上演や装束の着付け体験だけではなく、もっと活動に付加価値をつけたいかな。。と漠然と考えていたところだったので、これは今後面白い展開が期待できるかも、です。

で、こちらの起業家さんたちのお車に便乗させて頂いて、「鹿折復幸マルシェ」さんにお邪魔させて頂くことになりました。気仙沼の反対側にあるのだとばっかり思っていた東新城と鹿折は、じつは安波山を貫くトンネルを通るバイパスがあって、これを使うとあっという間に鹿折に到着します。この安波山、震災当時気仙沼でロケをしていたサンドウィッチマンのお二人が避難したところなんですって。仙台出身のお二人はその後も被災地のために精力的に活動されています。