さて「かもめ通り商店街」や「東新城オレンジ」の写真を撮って会場に戻ると、ちょうど「ネットワークオレンジ」の代表・小野寺美厚(みこ)さんと目が合いました。いろいろと準備がお忙しいところですが、ぬえが話しかけると美厚さんも気軽に応じてくださって。。ここから、そうだな、20分くらいも二人でいろいろと話し合うことになりました。
じつはこの日の少し前、ぬえは美厚さんが国会に参考人として招致され、意見を述べておられていたことを知ったのでした(!)。まずはそんな話題から始まって、もう1年のお付き合いになるというのに「ネットワークオレンジ」について知らない事が多すぎて、いろいろとお伺いさせて頂きました。そうしたら。。
まず団体の活動の原点は、美厚さんがお子さんを出産されたところから始まります。。双子の男の子は不幸なことに障害を持って生まれたのでした。そこから母親としての戦いが始まります。行政を相手に保育園や小学校に健常者と差別なく入れてもらうこと。。なるほど、ここまでなら どの母親でも行うことでしょう。ただ、美厚さんの場合はこれは20年前のお話しで、まだ障害者を保護したり自立の支援になるような法律もない時代の話でした。
次に美厚さんの活動は、後に続く母親のために、そして育ってゆく我が子のために団体を立ち上げて、知的障害児童の自立支援を行うようになり、児童が作った作品を販売するなどの活動も始められました。まあ、ここまでも地域活動としては各地でたまに耳にするようなことだと思います。問題はこのあと。
。。ここからは美厚さんから ぬえが直接伺った内容をかいつまんでお話ししようと思います(記憶違いなど間違いがあればご指摘ください→関係者各位)が、美厚さんは障害を持った児童が技能を身につけて社会に巣立つとして、それを受け入れる側の社会が疲弊していることに気づきました。まだ大企業が雇用者の一定の割合で障害者を採用しなければならない法律(障害者雇用促進法)もない時代の話ですが、現実に地域で働く場としての中小企業などにとっては経済的にとても障害者を受け入れるような余裕がないことに気づいたのでした。
そこで美厚さん。。というか、ここからは「ネットワークオレンジ」のみなさんが、と言った方が良いでしょうね。それが主導して地域の産業の活性化にまで視野を広げていかれたのでした。
現在「ネットワークオレンジ」さんが展開しておられる事業は多岐に渡っていますが、障害児童対象の作業訓練、生活訓練はもちろんのこと、地域の事業者などを対象に、講師を呼んでビジネス講座を開いたり、NPO団体の運営相談に乗ったり。地域が活性するために「学ぶ」機会や講座を次々に提案していること。
こうして育っていく地域の活性のアイデアを集成して発現する場として、次に登場するのが「東北マルシェ」という構想。すでに、どちらかというとイベントとして2回行われているようですが、目標としては恒常的な施設として運営することで、そこでは商業地域としての役割だけではなく、障害児童の就労の受け皿として活用もし、イベントステージもあり(ぬえさんもそのときは是非、とご招待頂きました~)。。そうして。
この「東北マルシェ」を、次の災害が起こったときの避難所とも位置づけ、また他所での災害の支援拠点にもしよう、というのが美厚さんの口から聞いた理想の姿なのでした。
ううむ、ここまで考えておられたのか。。じつは東北地方の沿岸地域では次の震災。。つまり2年前の震災の余震として、前回と同じような地震と津波がもう一度同じ地域を襲うであろう、ということは確信のように囁かれていました。。結局それはいまだに起こっていないわけですが、万が一の際のその備えや協力関係は、意外にも確立されていないように思っています。それは単純に前の震災から立ち直るのにまだ多くの時間が割かれている、というだけではなく、ときにドロドロとした人間関係が足かせとなって、みんなが心を共有して目標に進むのを困難にしている、という事情さえあるのです。問題は複雑。ぬえ自身、2年間被災地で活動を続けているわけですが、このブログにも書けないこともたくさんあります。。
その一方、ぬえが見た石巻の湊小学校避難所の校庭に建てられた、まるでサーカス小屋のような巨大なテント。これは中越地震のときに被害を受けた人々からの支援の浴場だったのです。ぬえがそれと知ったのは、そのテントに大きな横断幕が掲げられてあったからですが、そこ書かれた石巻の人々へのメッセージは「がんばってください」でも「応援してます」でもありませんでした。ぬえがそこに見た文字は「ありがとう」だったのです。
「チーム神戸」のリーダーの金田さんも、同じく17年前の阪神淡路大震災の被災者。今回の震災では直後から石巻市に入って、以来2年以上を石巻に常駐して支援活動に携わっておられます(現在は神戸と半々に行き来しておられるようです)。。これは東京に住んでいる ぬえには衝撃的でした。神戸や新潟。。震災で痛手を受けた人々は、次に同じような災害を受けた土地があれば、自分たちの経験を元にして支援活動を展開する準備をずっと整えていたのでした。東京だって10万人の死者・行方不明者を出しているのに、現状では ほとんど風化してしまっているのが実情でしょう。
これら神戸や新潟の人々を見て、ぬえは、いつか同じように災害が起こったとき、石巻とか気仙沼から「ありがとう」と書いた横断幕がついた支援物資が届けられる日が来るのを夢見てきました。
。。でも、現実にはまだまだそういう余裕は今の東北地方にはありません。仮設住宅での孤立や孤独死の問題、その仮設住宅自体の解消もいずれは訪れます。仮設商店街も、場所によっては採算の問題もあるらしい。これらの「仮設」がなくなった時に、本当に住民さんが自立できているのか。今は見えない将来のために不安が覆っている段階であるように ぬえには見えます。もちろん、ぬえの管見には入って来ない、もっともっと前進している人々もあるのでしょうが。。
ですから、ぬえにとって「次の災害」が起こった際の避難はもとより、支援にまで話を進めた美厚さんのお言葉は、この2年間の活動で最も胸を打った、と言ってよい言葉でした。こういう人もいるんだねえ。感激。
じつはこの日の少し前、ぬえは美厚さんが国会に参考人として招致され、意見を述べておられていたことを知ったのでした(!)。まずはそんな話題から始まって、もう1年のお付き合いになるというのに「ネットワークオレンジ」について知らない事が多すぎて、いろいろとお伺いさせて頂きました。そうしたら。。
まず団体の活動の原点は、美厚さんがお子さんを出産されたところから始まります。。双子の男の子は不幸なことに障害を持って生まれたのでした。そこから母親としての戦いが始まります。行政を相手に保育園や小学校に健常者と差別なく入れてもらうこと。。なるほど、ここまでなら どの母親でも行うことでしょう。ただ、美厚さんの場合はこれは20年前のお話しで、まだ障害者を保護したり自立の支援になるような法律もない時代の話でした。
次に美厚さんの活動は、後に続く母親のために、そして育ってゆく我が子のために団体を立ち上げて、知的障害児童の自立支援を行うようになり、児童が作った作品を販売するなどの活動も始められました。まあ、ここまでも地域活動としては各地でたまに耳にするようなことだと思います。問題はこのあと。
。。ここからは美厚さんから ぬえが直接伺った内容をかいつまんでお話ししようと思います(記憶違いなど間違いがあればご指摘ください→関係者各位)が、美厚さんは障害を持った児童が技能を身につけて社会に巣立つとして、それを受け入れる側の社会が疲弊していることに気づきました。まだ大企業が雇用者の一定の割合で障害者を採用しなければならない法律(障害者雇用促進法)もない時代の話ですが、現実に地域で働く場としての中小企業などにとっては経済的にとても障害者を受け入れるような余裕がないことに気づいたのでした。
そこで美厚さん。。というか、ここからは「ネットワークオレンジ」のみなさんが、と言った方が良いでしょうね。それが主導して地域の産業の活性化にまで視野を広げていかれたのでした。
現在「ネットワークオレンジ」さんが展開しておられる事業は多岐に渡っていますが、障害児童対象の作業訓練、生活訓練はもちろんのこと、地域の事業者などを対象に、講師を呼んでビジネス講座を開いたり、NPO団体の運営相談に乗ったり。地域が活性するために「学ぶ」機会や講座を次々に提案していること。
こうして育っていく地域の活性のアイデアを集成して発現する場として、次に登場するのが「東北マルシェ」という構想。すでに、どちらかというとイベントとして2回行われているようですが、目標としては恒常的な施設として運営することで、そこでは商業地域としての役割だけではなく、障害児童の就労の受け皿として活用もし、イベントステージもあり(ぬえさんもそのときは是非、とご招待頂きました~)。。そうして。
この「東北マルシェ」を、次の災害が起こったときの避難所とも位置づけ、また他所での災害の支援拠点にもしよう、というのが美厚さんの口から聞いた理想の姿なのでした。
ううむ、ここまで考えておられたのか。。じつは東北地方の沿岸地域では次の震災。。つまり2年前の震災の余震として、前回と同じような地震と津波がもう一度同じ地域を襲うであろう、ということは確信のように囁かれていました。。結局それはいまだに起こっていないわけですが、万が一の際のその備えや協力関係は、意外にも確立されていないように思っています。それは単純に前の震災から立ち直るのにまだ多くの時間が割かれている、というだけではなく、ときにドロドロとした人間関係が足かせとなって、みんなが心を共有して目標に進むのを困難にしている、という事情さえあるのです。問題は複雑。ぬえ自身、2年間被災地で活動を続けているわけですが、このブログにも書けないこともたくさんあります。。
その一方、ぬえが見た石巻の湊小学校避難所の校庭に建てられた、まるでサーカス小屋のような巨大なテント。これは中越地震のときに被害を受けた人々からの支援の浴場だったのです。ぬえがそれと知ったのは、そのテントに大きな横断幕が掲げられてあったからですが、そこ書かれた石巻の人々へのメッセージは「がんばってください」でも「応援してます」でもありませんでした。ぬえがそこに見た文字は「ありがとう」だったのです。
「チーム神戸」のリーダーの金田さんも、同じく17年前の阪神淡路大震災の被災者。今回の震災では直後から石巻市に入って、以来2年以上を石巻に常駐して支援活動に携わっておられます(現在は神戸と半々に行き来しておられるようです)。。これは東京に住んでいる ぬえには衝撃的でした。神戸や新潟。。震災で痛手を受けた人々は、次に同じような災害を受けた土地があれば、自分たちの経験を元にして支援活動を展開する準備をずっと整えていたのでした。東京だって10万人の死者・行方不明者を出しているのに、現状では ほとんど風化してしまっているのが実情でしょう。
これら神戸や新潟の人々を見て、ぬえは、いつか同じように災害が起こったとき、石巻とか気仙沼から「ありがとう」と書いた横断幕がついた支援物資が届けられる日が来るのを夢見てきました。
。。でも、現実にはまだまだそういう余裕は今の東北地方にはありません。仮設住宅での孤立や孤独死の問題、その仮設住宅自体の解消もいずれは訪れます。仮設商店街も、場所によっては採算の問題もあるらしい。これらの「仮設」がなくなった時に、本当に住民さんが自立できているのか。今は見えない将来のために不安が覆っている段階であるように ぬえには見えます。もちろん、ぬえの管見には入って来ない、もっともっと前進している人々もあるのでしょうが。。
ですから、ぬえにとって「次の災害」が起こった際の避難はもとより、支援にまで話を進めた美厚さんのお言葉は、この2年間の活動で最も胸を打った、と言ってよい言葉でした。こういう人もいるんだねえ。感激。