今回の活動の最後の上演地、石巻の立町ふれあい商店街をあとにして、ぬえ、笛のTさん、JIN'S PROJECTのリーダー・折尾仁さん、それぞれが次の目的地に向かうためいったん車で一緒に仙台に出たのですが、このときまだ時間も早かったので仁さんの提案もあって、名取市~七ヶ浜町の様子も見に行きました。
名取市。。閖上浜の被害が大きく報道された場所ですが。。なにもありませんでした。仁さんいわく、市長さんが震災直後から復興に取り組んで、積極的にガレキの撤去を進めていったため、早いうちから今のような更地の状態になったのだそうです。なるほど、街を再建するにもまずガレキなどを片づけなければ前へは進めないわけですが。。しかし反面、これに伴って違う問題も起きてきてしまったのだそう。。すなわち被災家屋などもなくなったけれども、同時に人も来なくなってしまったのだそうです。
このへん、同じように津波の被害を受けたほかの地域がいま抱える問題にもつながる話ですね。いま気仙沼市では鹿折に残された巨大漁船「第18共徳丸」が解体されることになりましたが、これまでずっと市民の間では震災の「負」のモニュメントとしてこの船を保存するかどうか、意見がわかれていました。女川町の津波で横倒しになったビルや交番は、世界的にも例のない被害だということもあって、保存される事が決まったのだとか。石巻では焼けてしまった門脇小学校は、新たに策定された居住地域の制限によってその周囲までが居住地域となったものの、校舎を取り壊すか保存するかはまだ結論が出ていないそうで、これは大川小学校や南三陸町・志津川の防災庁舎も同じ状況です。逆に石巻の日和大橋のそばまで流された「木の屋水産」の鯨缶詰を模した巨大なタンクや、雄勝町の公民館の屋根に乗り上げた観光バスは1年ほど前に撤去され、大槌町で民宿に乗り上げた観光船「はまゆり」は、撤去はされたものの、復元・保存するために町が費用の寄付を募っているのだとか。
こうした「震災遺構」について、ぬえは当初保存すべき、という意見でしたが、次第に撤去した方が良い、と考えが変わりました。ところが「第18共徳丸」については、気仙沼の ぬえの知人の意見は、保存すべき、というものが多かったように思います。またこの船については、先日(5月末)に気仙沼を訪問した際に、また新しい意見も聞くことができました。これはその活動のご報告の際にご紹介しようと思います。
いずれにしても、遺構の保存の可否はそこに住む住民さんの意向がまずは尊重されるべきでしょう。人的被害があった遺物を保存するかどうかは感情の微妙な問題がありますし。。それでも震災の体験は、どこまでも「見た者にしかわからない」のであろうと思います。だからこそ被害を受けながら、なお後世への教訓として遺構を残そう、と考えられる地元の方の意見は重いと感じます。。こう考えると、石巻の「木の屋水産」さんの鯨缶タンクは残しておいてもよかったかなあ、と ぬえは思いますけれどね。そのものによる人的被害がなかった(推測ですが)し、なにより沈鬱な遺構ではなかったです。少々ユーモアさえ感じられたし。。
さて名取市はそんな震災遺構はもとより、ほとんどガレキもなく、ただ広大な原野のようになっていました。もともと仙台市を中心として拡がる仙台平野の最も海側の場所で、周囲には高台がまるでなく、津波は遮られることもなく内陸にまで及んだのでした。今では行政施設も仮設住宅も内陸部に移転していて、海のそばには、唯一と言ってよいかも、の「日和山」だけが残されて、このときもお坊さんなど何人かの方が訪れておられました。
この「日和山」、石巻市にもある山の名前ですが、本来「日和」を観測するための高台、という意味で、港町にはよくある地名。こちら名取市閖上の日和山は、大正時代に築かれた、ほんの7~8mの築山です。頂上には流された神社の代わりに神を祀っているらしいものと、震災の慰霊碑との木柱が立てられていました。
すみません気仙沼でデジカメが壊れてしまって画像がありません。閖上の様子と日和山については次のブログをご紹介しておきます。
→仙台人 が仙台観光をしてる ブログ
→伝えたい、残したい なとり100選
ぬえら一行はそこから北上して七ヶ浜などを見て回りました。仁さんは震災直後から名取市でも七ヶ浜でも活動をしておられたそうですが、七ヶ浜はぬえも震災3ヶ月後から訪れた場所です。当時は名取市や仙台市の若林地区はあちこちが通行止めで、支援の具体的な計画がなかった ぬえは近寄れませんでした。七ヶ浜もまったく土地勘がない状態で当時はあっけにとられたように見るだけでしたが。。今回は走っているうちに ふと、以前に見た光景だと気づきました。この日はもう夜になっていたので写真が撮れませんでしたが、こちらが今からちょうど2年前、2011年の6月に、ぬえが震災後はじめて東北に来て写した写真。これがまさにそれ以来この日2年ぶりに訪れた七ヶ浜町の海岸なのでした。
当時、海岸には船に積まれるようなコンテナがいくつも打ち上げられ、道路には「津波避難場所」の方向を示す標識がむなしく倒れていましたが、それらもすべて現在では撤去されていました。
さてようやく一行は仙台駅に向かいます。ここから ぬえは車で東京に帰り、笛のTさんは会津に向かい、仁さんは仙台に宿泊して翌日の予定に備えることになっています。
。。で、仙台駅に向かう途中で夕方6時、NHKのニュース番組「てれまさむね」が放映される時間になりました。この日石巻の立町ふれあい商店街での上演が取材されたので、ビデオを片手に楽しみに車載のカーナビの小さなワンセグテレビの画面を見つめていたのですが。。いつまで経っても能楽公演のニュースが流れない。。
やがて時刻は7時に迫り、Tさんが乗る高速バスの時間も近づくなか。。もう、一番最後のニュースでした! ようやく能楽公演の様子が放映されました。。それどころか ぬえの名前もTさんの名前もちゃんと画面に流れました。ぬえたちの活動は新聞には時々載せて頂けるけれどテレビ取材はこれでようやく2度目。ところが名前まで紹介されたのは今回が初めてで、プロジェクトとしても快挙の瞬間でありました!
終了後、大急ぎで仙台駅に向かい、Tさんも高速バスにギリギリ セーフで乗り込むことができました。仁さんをホテルにお送りして、これで解散。
あ、そうそう、解散して走り出したら気仙沼の協力者さんからお電話を頂き、「てれまさむね」見ましたよ~。と言ってくださいました。
今回の活動も成功裡に終えることができ、満足のうちに ぬえも一人で東北道を走り、深夜に東京に帰りつくことができました。
【この項 了】
名取市。。閖上浜の被害が大きく報道された場所ですが。。なにもありませんでした。仁さんいわく、市長さんが震災直後から復興に取り組んで、積極的にガレキの撤去を進めていったため、早いうちから今のような更地の状態になったのだそうです。なるほど、街を再建するにもまずガレキなどを片づけなければ前へは進めないわけですが。。しかし反面、これに伴って違う問題も起きてきてしまったのだそう。。すなわち被災家屋などもなくなったけれども、同時に人も来なくなってしまったのだそうです。
このへん、同じように津波の被害を受けたほかの地域がいま抱える問題にもつながる話ですね。いま気仙沼市では鹿折に残された巨大漁船「第18共徳丸」が解体されることになりましたが、これまでずっと市民の間では震災の「負」のモニュメントとしてこの船を保存するかどうか、意見がわかれていました。女川町の津波で横倒しになったビルや交番は、世界的にも例のない被害だということもあって、保存される事が決まったのだとか。石巻では焼けてしまった門脇小学校は、新たに策定された居住地域の制限によってその周囲までが居住地域となったものの、校舎を取り壊すか保存するかはまだ結論が出ていないそうで、これは大川小学校や南三陸町・志津川の防災庁舎も同じ状況です。逆に石巻の日和大橋のそばまで流された「木の屋水産」の鯨缶詰を模した巨大なタンクや、雄勝町の公民館の屋根に乗り上げた観光バスは1年ほど前に撤去され、大槌町で民宿に乗り上げた観光船「はまゆり」は、撤去はされたものの、復元・保存するために町が費用の寄付を募っているのだとか。
こうした「震災遺構」について、ぬえは当初保存すべき、という意見でしたが、次第に撤去した方が良い、と考えが変わりました。ところが「第18共徳丸」については、気仙沼の ぬえの知人の意見は、保存すべき、というものが多かったように思います。またこの船については、先日(5月末)に気仙沼を訪問した際に、また新しい意見も聞くことができました。これはその活動のご報告の際にご紹介しようと思います。
いずれにしても、遺構の保存の可否はそこに住む住民さんの意向がまずは尊重されるべきでしょう。人的被害があった遺物を保存するかどうかは感情の微妙な問題がありますし。。それでも震災の体験は、どこまでも「見た者にしかわからない」のであろうと思います。だからこそ被害を受けながら、なお後世への教訓として遺構を残そう、と考えられる地元の方の意見は重いと感じます。。こう考えると、石巻の「木の屋水産」さんの鯨缶タンクは残しておいてもよかったかなあ、と ぬえは思いますけれどね。そのものによる人的被害がなかった(推測ですが)し、なにより沈鬱な遺構ではなかったです。少々ユーモアさえ感じられたし。。
さて名取市はそんな震災遺構はもとより、ほとんどガレキもなく、ただ広大な原野のようになっていました。もともと仙台市を中心として拡がる仙台平野の最も海側の場所で、周囲には高台がまるでなく、津波は遮られることもなく内陸にまで及んだのでした。今では行政施設も仮設住宅も内陸部に移転していて、海のそばには、唯一と言ってよいかも、の「日和山」だけが残されて、このときもお坊さんなど何人かの方が訪れておられました。
この「日和山」、石巻市にもある山の名前ですが、本来「日和」を観測するための高台、という意味で、港町にはよくある地名。こちら名取市閖上の日和山は、大正時代に築かれた、ほんの7~8mの築山です。頂上には流された神社の代わりに神を祀っているらしいものと、震災の慰霊碑との木柱が立てられていました。
すみません気仙沼でデジカメが壊れてしまって画像がありません。閖上の様子と日和山については次のブログをご紹介しておきます。
→仙台人 が仙台観光をしてる ブログ
→伝えたい、残したい なとり100選
ぬえら一行はそこから北上して七ヶ浜などを見て回りました。仁さんは震災直後から名取市でも七ヶ浜でも活動をしておられたそうですが、七ヶ浜はぬえも震災3ヶ月後から訪れた場所です。当時は名取市や仙台市の若林地区はあちこちが通行止めで、支援の具体的な計画がなかった ぬえは近寄れませんでした。七ヶ浜もまったく土地勘がない状態で当時はあっけにとられたように見るだけでしたが。。今回は走っているうちに ふと、以前に見た光景だと気づきました。この日はもう夜になっていたので写真が撮れませんでしたが、こちらが今からちょうど2年前、2011年の6月に、ぬえが震災後はじめて東北に来て写した写真。これがまさにそれ以来この日2年ぶりに訪れた七ヶ浜町の海岸なのでした。
当時、海岸には船に積まれるようなコンテナがいくつも打ち上げられ、道路には「津波避難場所」の方向を示す標識がむなしく倒れていましたが、それらもすべて現在では撤去されていました。
さてようやく一行は仙台駅に向かいます。ここから ぬえは車で東京に帰り、笛のTさんは会津に向かい、仁さんは仙台に宿泊して翌日の予定に備えることになっています。
。。で、仙台駅に向かう途中で夕方6時、NHKのニュース番組「てれまさむね」が放映される時間になりました。この日石巻の立町ふれあい商店街での上演が取材されたので、ビデオを片手に楽しみに車載のカーナビの小さなワンセグテレビの画面を見つめていたのですが。。いつまで経っても能楽公演のニュースが流れない。。
やがて時刻は7時に迫り、Tさんが乗る高速バスの時間も近づくなか。。もう、一番最後のニュースでした! ようやく能楽公演の様子が放映されました。。それどころか ぬえの名前もTさんの名前もちゃんと画面に流れました。ぬえたちの活動は新聞には時々載せて頂けるけれどテレビ取材はこれでようやく2度目。ところが名前まで紹介されたのは今回が初めてで、プロジェクトとしても快挙の瞬間でありました!
終了後、大急ぎで仙台駅に向かい、Tさんも高速バスにギリギリ セーフで乗り込むことができました。仁さんをホテルにお送りして、これで解散。
あ、そうそう、解散して走り出したら気仙沼の協力者さんからお電話を頂き、「てれまさむね」見ましたよ~。と言ってくださいました。
今回の活動も成功裡に終えることができ、満足のうちに ぬえも一人で東北道を走り、深夜に東京に帰りつくことができました。
【この項 了】