このあと『隅田川』によく似た問答でシテが子方の素性を尋ね、それによって次第に我が子とシテが確信を持つ場面。この殺伐とした能の中で、唯一 人情味が出る場面です。この問答、ぬえは こういうのがヘタで、どうも感情移入がし過ぎると言うのか、謡が強くなり過ぎてしまって、よく指摘されるところです。稽古で抑えてみようと努力はしているんですが、ん~~ ぬえって熱いからどうなるかなあ。。
ところでこういう場面は、体の使い方について型附にはほとんど何も書かれていません。もとよりシテは床几に掛かっているから動きようもないのですが、意外に型附というのは、二足出るとか、右にウケるとか、大きな動きしか記すことができないのです。そうでなければ逆に「トクと下に居る」とか「ズイと見込み」とか、はたまた「~の心にて」とか、感情面の表し方について演者の心得に注意をする、という点が細かく書いてある。こういうところは型附の素晴らしいところだと思いますが、この場面のような、だんだんと心が動いていくところは型附には あまり詳しく書いてない場合が多いように思います。
もちろん「父の名字は」「二見の太夫渡會の何某」と、自分の名前が子方の口から飛び出してきたときにシテは、もう疑いようもなく真実を悟るのですから、ここで起きる感情が表に現れないはずがないので、このあたりは演者の工夫が当然 必須になってくるところです。「型附に何も書いていないから何もしませんでした」では済まされるわけがなく、また逆にやり過ぎれば嫌みになるでしょうし。ぬえは少し体を右に開くのがよいのではないかと思いますが、タイミングも重要ですね。
それから、この場面ではシテ泣かせの型があるのです。「こはそも神の引き合はせか。これこそ父のなにがしよ」とシテが謡うところで、シテは右手にかかえ持った弓をタテに持ち替えて床にトンと突くのです。ところが曲がった形の弓を、滑らかな舞台の床に「トン」と突くのは意外に難しいです。『歌占』に使う弓は小弓で、やや短い上に、突いた弓がツルッと床面を滑っちゃうんですよね。。うまく弓を持ち替えられるどうかがカギなのかもしれませんが、これは面を掛けているとさらに難易度が高いと思います。ま、型としては、自分じゃ子どもを探そうともしていなかったくせに、「これこそ父の」と名乗りながら弓を突くのは ちょっと偉そうな型かなあ、とも思いますが。
ちなみにこの場面でシテの名前が唯一現れるのですが、観世流では「これこそ父の何某よ」という、はなはだ不分明な詞章になっています。親子が名乗りあうのに「名無し」では。。『歌占』以外にも類例はあるのですが、どれも正直に言わせてもらえば謡いにくくて困ります。このところは下掛りでは「家次」と名乗りますが、これはやりやすいでしょうね。仕方がないので ぬえは、こういうところは「ナニガシ」という固有名詞、つまり れっきとした名前なのだ、と思うようにしています。
地謡「程へて今ぞ廻り逢ふ。占も合ひたり親と子の。二見の占方の。正しき親子なりけるぞ。げにや君が住む。越の白山知らねども。古りにし人の行くへとて。四鳥の別れ親と子に。二度逢ふぞ不思議なる二度逢ふぞ不思議なる。
地謡となり、シテは弓を右に捨てて床几を離れ、子方に両手を掛けて二人はシオリをします。「げにや君が住む」とシテは正へ直し、「四鳥の別れ親と子に」と再び二人向き合って、またシオリとなります。
ところでこういう場面は、体の使い方について型附にはほとんど何も書かれていません。もとよりシテは床几に掛かっているから動きようもないのですが、意外に型附というのは、二足出るとか、右にウケるとか、大きな動きしか記すことができないのです。そうでなければ逆に「トクと下に居る」とか「ズイと見込み」とか、はたまた「~の心にて」とか、感情面の表し方について演者の心得に注意をする、という点が細かく書いてある。こういうところは型附の素晴らしいところだと思いますが、この場面のような、だんだんと心が動いていくところは型附には あまり詳しく書いてない場合が多いように思います。
もちろん「父の名字は」「二見の太夫渡會の何某」と、自分の名前が子方の口から飛び出してきたときにシテは、もう疑いようもなく真実を悟るのですから、ここで起きる感情が表に現れないはずがないので、このあたりは演者の工夫が当然 必須になってくるところです。「型附に何も書いていないから何もしませんでした」では済まされるわけがなく、また逆にやり過ぎれば嫌みになるでしょうし。ぬえは少し体を右に開くのがよいのではないかと思いますが、タイミングも重要ですね。
それから、この場面ではシテ泣かせの型があるのです。「こはそも神の引き合はせか。これこそ父のなにがしよ」とシテが謡うところで、シテは右手にかかえ持った弓をタテに持ち替えて床にトンと突くのです。ところが曲がった形の弓を、滑らかな舞台の床に「トン」と突くのは意外に難しいです。『歌占』に使う弓は小弓で、やや短い上に、突いた弓がツルッと床面を滑っちゃうんですよね。。うまく弓を持ち替えられるどうかがカギなのかもしれませんが、これは面を掛けているとさらに難易度が高いと思います。ま、型としては、自分じゃ子どもを探そうともしていなかったくせに、「これこそ父の」と名乗りながら弓を突くのは ちょっと偉そうな型かなあ、とも思いますが。
ちなみにこの場面でシテの名前が唯一現れるのですが、観世流では「これこそ父の何某よ」という、はなはだ不分明な詞章になっています。親子が名乗りあうのに「名無し」では。。『歌占』以外にも類例はあるのですが、どれも正直に言わせてもらえば謡いにくくて困ります。このところは下掛りでは「家次」と名乗りますが、これはやりやすいでしょうね。仕方がないので ぬえは、こういうところは「ナニガシ」という固有名詞、つまり れっきとした名前なのだ、と思うようにしています。
地謡「程へて今ぞ廻り逢ふ。占も合ひたり親と子の。二見の占方の。正しき親子なりけるぞ。げにや君が住む。越の白山知らねども。古りにし人の行くへとて。四鳥の別れ親と子に。二度逢ふぞ不思議なる二度逢ふぞ不思議なる。
地謡となり、シテは弓を右に捨てて床几を離れ、子方に両手を掛けて二人はシオリをします。「げにや君が住む」とシテは正へ直し、「四鳥の別れ親と子に」と再び二人向き合って、またシオリとなります。