ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

『歌占』。。運命が描かれる能(その17)

2008-06-05 01:25:38 | 能楽
このあと『隅田川』によく似た問答でシテが子方の素性を尋ね、それによって次第に我が子とシテが確信を持つ場面。この殺伐とした能の中で、唯一 人情味が出る場面です。この問答、ぬえは こういうのがヘタで、どうも感情移入がし過ぎると言うのか、謡が強くなり過ぎてしまって、よく指摘されるところです。稽古で抑えてみようと努力はしているんですが、ん~~ ぬえって熱いからどうなるかなあ。。

ところでこういう場面は、体の使い方について型附にはほとんど何も書かれていません。もとよりシテは床几に掛かっているから動きようもないのですが、意外に型附というのは、二足出るとか、右にウケるとか、大きな動きしか記すことができないのです。そうでなければ逆に「トクと下に居る」とか「ズイと見込み」とか、はたまた「~の心にて」とか、感情面の表し方について演者の心得に注意をする、という点が細かく書いてある。こういうところは型附の素晴らしいところだと思いますが、この場面のような、だんだんと心が動いていくところは型附には あまり詳しく書いてない場合が多いように思います。

もちろん「父の名字は」「二見の太夫渡會の何某」と、自分の名前が子方の口から飛び出してきたときにシテは、もう疑いようもなく真実を悟るのですから、ここで起きる感情が表に現れないはずがないので、このあたりは演者の工夫が当然 必須になってくるところです。「型附に何も書いていないから何もしませんでした」では済まされるわけがなく、また逆にやり過ぎれば嫌みになるでしょうし。ぬえは少し体を右に開くのがよいのではないかと思いますが、タイミングも重要ですね。

それから、この場面ではシテ泣かせの型があるのです。「こはそも神の引き合はせか。これこそ父のなにがしよ」とシテが謡うところで、シテは右手にかかえ持った弓をタテに持ち替えて床にトンと突くのです。ところが曲がった形の弓を、滑らかな舞台の床に「トン」と突くのは意外に難しいです。『歌占』に使う弓は小弓で、やや短い上に、突いた弓がツルッと床面を滑っちゃうんですよね。。うまく弓を持ち替えられるどうかがカギなのかもしれませんが、これは面を掛けているとさらに難易度が高いと思います。ま、型としては、自分じゃ子どもを探そうともしていなかったくせに、「これこそ父の」と名乗りながら弓を突くのは ちょっと偉そうな型かなあ、とも思いますが。

ちなみにこの場面でシテの名前が唯一現れるのですが、観世流では「これこそ父の何某よ」という、はなはだ不分明な詞章になっています。親子が名乗りあうのに「名無し」では。。『歌占』以外にも類例はあるのですが、どれも正直に言わせてもらえば謡いにくくて困ります。このところは下掛りでは「家次」と名乗りますが、これはやりやすいでしょうね。仕方がないので ぬえは、こういうところは「ナニガシ」という固有名詞、つまり れっきとした名前なのだ、と思うようにしています。

地謡「程へて今ぞ廻り逢ふ。占も合ひたり親と子の。二見の占方の。正しき親子なりけるぞ。げにや君が住む。越の白山知らねども。古りにし人の行くへとて。四鳥の別れ親と子に。二度逢ふぞ不思議なる二度逢ふぞ不思議なる。

地謡となり、シテは弓を右に捨てて床几を離れ、子方に両手を掛けて二人はシオリをします。「げにや君が住む」とシテは正へ直し、「四鳥の別れ親と子に」と再び二人向き合って、またシオリとなります。

『歌占』。。運命が描かれる能(その16)

2008-06-04 12:01:53 | 能楽
シテ「さりとては占に偽よもあらじ。鴬に遇う言葉の縁あり。又卵の中の子規とも云へり。時も卯月程時も合ひに合ひたり。や。今啼くはほととぎすにて候か。
子方「さん候ほととぎすにて候。
シテ「面白し面白し。当面黄舌の囀。鴬の子は子なりけり子は子なりけり。不思議や御身はいづくの人ぞ。

このへん、シテ自身が予期しない方向に話が進んでゆき、自らがそれに巻き込まれてゆく過程をうまく表していて興味深いと思います。

シテの歌占いの結果、子方がすでに父に会っている、と判断した理由は、まず「鴬に遇う言葉の縁あり」すなわち「鶯」は「おう」と音読みするわけで、彼は少なくとも近い未来に、尋ねる人に行き会う事を示している、というわけです。次の「卵の中の子規とも云へり」はちょっと判りづらいですが、もちろん子方が引いた「鴬のかひこの中の子規。しゃが父に似てしゃが父に似ず」を言っているものでしょう。ここは原歌「鴬の 卵の中に 霍公鳥 独り生れて 己が父に 似ては鳴かず 己が母に 似ては鳴かず」を想定した方がわかりやすいと思いますが、育ての親としての鶯は、「義理の母親」のような見立てになるのだと思います。「義理の母には似ず、実の父に似ている」。。あたりまえなのですが、当人にとってみれば とんでもなくややこしい親子関係。「卵の中の子規」とは鶯の巣の中、つまり他人の中に紛れ込んで行方がわからなくなった本当の子、という意味でしょう。この場合はそれがついに露見する、その日が近づいている、というような意味だと思います。

そしてまた放浪の辻占い師であるシテがたまたまこの加賀国白山のふもとを訪れ、そしてまた子方がそのシテに歌占いを所望したのは、まさにこの歌が詠んでいるその季節~四月でした。「時も卯月程時も合ひに合ひたり」。。どうやらシテにも不思議な巡り合わせの予感が出てきたようです。そこに追い打ちを掛けるように聞こえるホトトギスの鳴き声。「や。今啼くはほととぎすにて候か」。

子方にもその声は聞こえ、今鳴き声を響かせたのはホトトギスである事が疑いなくなると、シテは奇妙な感慨に襲われます。「面白し面白し。当面黄舌の囀」。目の当たりに聞こえるまだ若いホトトギスの鳴き声。しかしその美しい囀りは、まさに美声の母。。鶯ゆずりの才能なのでした。シテは思わず「鴬の子は子なりけり子は子なりけり」と口ずさみます。これは『今鏡』巻十にある以下の説話に見える歌です。

菩提樹院といふ寺に、ある僧房の、池のはちすに、鳥の子を生みたりけるを取りて籠に入れて、飼ひけるほどに、鶯のこより入りて、ものくゝめなどしければ鶯の子なりけりと、知りにけれど、子はおほきにて親にも似ざりければあやしく思ひけるほどに、子のやうやう大人しくなりて、ほとゝぎすと、鳴きければ昔より、言ひ伝へたる古きこと、まことなりと思ひて、ある人詠める、「親のおやぞ今はゆかしき郭公はや鴬のこは子也けり」と詠めりける。万葉集の長哥に鶯のかひこの中のほとゝぎす、などいひて、このことに侍るなるを、いと興あることにも侍るなるかな。

この歌に「親のおやぞ今はゆかしき郭公」とある言葉に引かれたのでしょう、シテは最初の「当面黄舌の囀。鴬の子は子なりけり」までは不思議な一致を興じる程度の風情ですが、にわかにそれが自分の身の上に降りかかった出来事である事を察知し、「子は子なりけり。。」と歌をかみしめて復唱します。このところ、右へウケながら弓を持ったまま両手で打ち合わせる型が「替エ」としてあるのですが、歌占いの場面にはシテはほとんど型がないので、ほぼ みなさんこの型はされておられるように思いますし、ぬえもこの型はする予定です。

ただ、打合せという型は「ハッと気がついた」とか「疑問が一気に氷解した」というような、意識としてかなり強いインパクトを受けた、という場合に使われる型なのです。ぬえはこの場面はまだそこまでにシテの気持ちは至っていないと思いますね。上に書いたように「子は子なりけり。。」と歌をかみしめながら、自分が見落としていた事実。。まさか自分の事ではあるまいか? ということに気づく、その「まさか。。」という気持ちでしょう。だからこそ、その直後 子方に「不思議や御身はいづくの人ぞ」と尋ねるのです。こう考えると、この打合せは難しいですね。気を抜いてフワリと。。というわけでもなく、バシッと両手を打ち付けるわけでもなく。シテも混乱していて、まさに「まさか。。」という感じの打合せ。。できるかなあ。

インターナショナル邦楽の集い

2008-06-03 14:53:44 | 能楽

かねて ぬえも仕舞のお稽古をつけていた外国人が出演するコンサート「インターナショナル邦楽の集い」(主催:代田インターナショナル長唄会)が1日、梅若能楽学院で催されました。

いや、みんなよくがんばったと思います。そしてまた、長唄の先生方もよくあそこまで教えたもんだと思いますね~。ぬえは長唄は素人だけれども、ほとんどミストーンも聞こえなかったし、アンサンブルとしてよくまとまっていたのではないでしょうか。決して聞きづらい演奏ではなかったと思います。また長唄を習っている外国人の生徒は三味線のほかに鼓や笛や、そしてなんと長唄を唄っている人までいましたし、踊りまで挑戦していました。いや、みごとみごと。

そして ぬえが教えたお仕舞も、型を間違える人はありませんでした。緊張でちょっと型が早めだった人はいたけれど、まあ、それはこちらも予測していましたし。地謡で少し調整してあげれば、最初から最後までみんなキチンと舞えたのではないかと思います。

思えば、外国人の生徒に稽古をつけたのはいいけれど、直前になってコンサートへの出場をキャンセルする人が出たり、それとは逆に、コンサートに過去に出演した生徒さんがこの日のために来日してお手伝いをしてくれたり。そんな、直前になって来日した生徒さんの中に ぬえが以前仕舞をお稽古した人もあったので、急遽お稽古をつけて、キャンセルした人の代役で出演してもらったり。もう最後の方のお稽古は てんやわんやでした(まあ、毎回こういうドタバタは起きるのですが。。)が、それにしてはみんな良くできた、と思います。

またこの日は以前にお知らせしたように、漫画家の成田美名子さんが外国人の取材にお出ましになりましたが、これまた生徒の事情がいろいろ変わってきて、当初のインタビュー相手とは違う、ジャン=ポール・コルベイくんと、ケリー・デュークちゃんというカナダ人の二人の若者がお話してくれました。へ~、ぬえも彼らについて知らなかったことばかり。いわく、二人とも、やっぱり、というか、日本のアニメへの興味から日本語を習い、日本に来てみたい、という希望を持ったのだそうです。でも、ここから先が彼らが偉いと思うのですが、日本に来たからには自分たちが「外国人」だという事を売り物にしたくなかった、日本に受け入れて欲しいと思ったそうです。だから外国人英語教師のアルバイトだけはしなかったのだそうで。だからかなあ、ぬえが教えているときはいつも二人とも貧乏でした。ケリーちゃんは容姿もよいのでNHKの「英語でしゃべらNight」という番組でリポーターをやったりしたこともありましたが。成田さんは物静かな方でしたが、ちゃんと取材になったかしらん? ぬえも一方的にしゃべったりして申し訳ありませんでした~。

また、このコンサートでは能楽写真家の山口宏子さんが、やはりボランティアで撮影に駆けつけてくださいました(このブログ掲載の写真も山口さんのご好意によって提供頂きました)。山口さんはじめ、コンサートにご助力頂いたみなさま、暖かく舞台を見守ってくださったお客さま方に心より御礼申し上げます~。



チビぬえと 豆ぬえも、それぞれ仕舞『嵐山』と『猩々』を勤めさせて頂き、ぬえも仕舞『弱法師』を勤めましたが、ちっこいのが仕舞を勤めるのはお客さんにとっても面白かったかもしれませんね。こちらも、まあまあ大過なく勤めることができましたし、よい経験になったことと思います。

あ、そういえば話は飛びますが、ちっこい、と言えば狩野川薪能で『嵐山』の子方に出演を抜擢した綸子ちゃんですが、どうもあちらこちらから ぬえ宛に綸子ちゃんへの励ましのメールを頂いておりますようです。(^_^;) はい!ちゃんと次回のお稽古のときに本人にお伝えさせて頂きます! メールを頂きました方々、まことにありがとうございました~。m(__)m

「狩野川薪能」以外にも多くの舞台の予定があるとは言え、『嵐山』の稽古の段階としては チビぬえは綸子ちゃんに追い抜かされた格好で、それを知った チビぬえもちょっと焦り気味です。まあ、まずは今月の『歌占』が終わらないことには先には進みにくいけれど、こちらもがんばって頂きたい。

またまたやってくれました!綸子ちゃん

2008-06-01 01:20:00 | 能楽

今日は伊豆の国市での「狩野川薪能」に向けてのお稽古でした。

ん~、どうも「子ども創作能」の方の出演者の稽古が進まないな。。声は出ていない、型はまだ覚えていない。。稽古をスタートした時点で ぬえが一緒に動いたり謡ったりしていたときには、これまでの狩野川薪能に出演してきた小学生にないほどの手応えを感じていたのに、いざそれを自分だけで演じるとなると、自分を信じることができないと言うか、どうしても他の子の動向を窺ってからでないと動けないと言うか。何度も言うように、能の動き方や謡い方が彼らにとって未知の世界であることは承知しています。でもそれを踏まえた上でのお稽古ももう2ヶ月を費やしているので、今日の ぬえは厳しかったです。稽古は途中で打切。次回までにちゃんと覚えておくように申し渡して終了させました。涙目の子もいたが。。

ぬえは間違っていないと思う。次回までにジャンプアップしてくれる事を望みます。「もう辞めたい」とお母さんに言っている子もいるかもしれませんが、人前で芸を披露するということは楽しいだけではダメなんです。責任だってある。いま投げ出したら達成の喜びを知らないままで心苦しく背を向けることになる。責任を全うしたときに受ける拍手を ぬえは胸を張って受けてほしいと思うんです。当日は一度きりしかない。そこに悔いを残すような結果で終わっては指導者としての ぬえが失格だ。そんな気持ちで ぬえはお稽古をしています。ここに気づいてくれるかどうかが、彼らの、言い過ぎを覚悟で言わせてもらえば人生の最初の分岐点になるのではないかと思います。今は ぬえだってつらいよ。

さて、子ども創作能のお稽古が終わったところで綸子ちゃんが登場。

狩野川薪能では玄人に交じって 能『嵐山』の子方という大役を勤める綸子ちゃん。稽古では二度に渡る「0点」を ぬえから喰らって、ところがその後は奮起した綸子ちゃんは、前回・前々回の稽古でめざましい進歩を遂げてきました。で、それならば!と ぬえはさらにハードルを上げたのであった。(O.O;)

『嵐山』の子方は大役で、まず登場楽「下リ端」に乗って登場しながら、笛の譜を聞いて、決められた譜のところで決められた位置にぴったりと到着しなければならないです。その後は「サシ込」やら「ヒラキ」やら「左右」「打込」「サシ廻し」「中左右」「七つ拍子」「行掛かり」「雲の扇」。。カッチリ仕草が決められた「舞」の型を次々とこなしてゆかなければなりません。能ではツレ扱いにして大人が演じることも多いほどの役なんです。

そこで二人登場するこの曲の子方を、一人は チビぬえに勤めさせ、もしも当日混乱しても チビぬえに合わせれば舞いおおせるようにも仕組みましたし、本来彼らが舞う「天女之舞」も省略しました。

ところが綸子ちゃんは一生懸命予習をしてきて、ぬえから課された型はマスターしてきて。。それならば、と省略していた「天女之舞」を、ぐっと詰めて3分程度に簡略した形とはいえ、挿入することにしました。前回の稽古でそれを決め、それから資料となる ぬえの模範演技のDVDやら、笛の唱歌を録音したCDやらを郵送して。。それで今日を迎えましたが、なんと! またしても綸子ちゃんは全部覚えてきたうえで稽古に参加してきました。登場楽「下リ端」よりも数倍高度、なんせ笛の譜を聞きながら、今度は舞を舞うのですから。。



ん~、ちょっとアマチュアとしては見たことのないほどのレベルを、いまの綸子ちゃんは身につけてしまいましたね。ぬえ自身、正直に言えば信じられないほどの上達です。なぜ ぬえが資料を送ってから たったの一週間の予習だけで「天女之舞」の笛の譜を聞き取って舞うことができるんだ。。? しかも今日 ぬえが実地で説明を行ったその前に。

そればかりではない。ぬえが送った資料は囃子の演奏の1小節ごとに型を配分しておいたのですが、それは型と笛の譜とをシンクロナイズさせて覚えてもらうためにそうしたので、実演上は少々無理もあったのです。一つの型をある1小節の中に納めると、次の型がとんでもなく忙しくなったり。。本当はそういう場面では次の型を少し早め、つまり前の小節の終わりに次の型を始めてしまう方がよいのです。

今日のお稽古では綸子ちゃんはすでに「天女之舞」の型は覚えてしまっていたので、このような、型を始めるタイミングの微調整のお稽古まで進めてしまいました。

ところが綸子ちゃんは、ぬえが送った資料で、おそらく何度も何度も予習してやっと「天女之舞」を覚えたばかりなのであろうのに、今日 ぬえが要求した型のタイミングの微調整も、その場で覚えてしまって。自分が予習してきた型のタイミングを ぬえの要求どおり すぐに舞う事ができる。。ちょっと見たことがないほどの習熟度。そして柔軟性。

うん。綸子ちゃんにはこのまま進んでいってほしいと思います。真夏の薪能の頃には、もうすでに『嵐山』の子方を舞うことに飽きてしまっている。。それが理想です。そうすれば型を洗練させるための余裕ももっともっと生まれてきます。なんせ本番はたった1度しかないのですから。