<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

わたしという一人の悪人のために

2014年06月27日 14時06分50秒 | Weblog
歎異抄にこうある。

「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」



阿弥陀如来が五劫の間(考えられもしないほどの長い時間をかけて)思惟なさった衆生救済の誓願は、考えてみれば、この悪人である親鸞一人を助けんがためであった。



阿弥陀如来の誓願が空疎であるはずはない。観念であるはずがない。



誓願はひたひたひたと打ち寄せているのである。わたしの足下にひたひたひたと打ち寄せているのである。大海の波になってわたしに打ち寄せているのである。



濡らしているのは弥陀の誓願である。これに濡れているのはわが足である。



わたしがこれで助からなければ阿弥陀如来の誓願は雲散する。



親鸞聖人はこれを「わたしのために」と受け止められたのである。



救済されるべきほかの悪人のためにではなく、わたしという悪人のために、五劫の長きにわたって願を起こされた。そのように真っ直ぐに我が身に受け止められたのだ。



滂沱の落涙であったことであろう。
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たった一人をよろこばすための海

2014年06月27日 13時27分28秒 | Weblog
そんなことがあるものか。そう信じてかかっているが、もしもほんとうにそんなことがありえているのだとしたら、驚きである。

三郎は、海に来ている。白い砂浜に立っている。足下に潮が打ち寄せる声がしている。



「三郎一人のために」

海が青いのは三郎のためである
海が広いのは三郎のためである
海が深いのは三郎のためである

三郎一人のためである
三郎一人をよろこばせるためである
よろこばせてよろこばせて
それでこれまで以上に三郎を高く高くするためである

潮が満ちて引いて膨らんだり萎んで見せたりしているのは
ただ三郎一人を揺さぶって揺さぶって
激しく爆発させんがためである
爆発させて新しい元素でもって三郎を満たすためである

海の砂浜が白いのは三郎のためである
海の砂浜が潮の匂いをさせているのは三郎のためである
海の砂浜へ終日波が打ち寄せているのは三郎のためである

なにからなにまでが三郎のためである
三郎を明るくするためである
三郎をあたたかくして包みこむがためである

海の上に空があるのは三郎のためである
海の上に海鳥が飛んでいるのは三郎のためにである
海の上に風が吹いているのは三郎のためにである

三郎は海に来ている
白い砂浜に立っている
足下に潮が打ち寄せて来て三郎に語りかけている



そんなことがあるものか。三郎はこれを拒否している。海があるのは三郎ひとりのためだとは到底信じることができない。



海が万年億年を費やして三郎に語りかけてきてもまだ三郎はこれを信じることができないでいる。
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人は病によって死ぬのではない

2014年06月27日 12時57分50秒 | Weblog
人は病によって死ぬのではない。病むくらいなことで人は死ねない。人が死ぬのは、そうしてもいい条件がすべて整えられたからである。

すなわち、そうしていいからである。そうすることで変革を遂げられるからである。

爆発を果たして自己のうちにニューワールドの超新星を授けられるがためにである。

三郎は不安がる自分にあれこれを言い聞かせる。

もちろん病も、死ぬことができるための条件のひとつである。これで膠着の駒を一つ前に、次なる明るい方へ進められるのである。

人が死ぬことは、たとえば地球の誕生ほどに重大な事件なので、個人の力の及ぶものではないのである。

もっと大きな大きな歯車と歯車が噛み合って、見事に噛み合って、成立するものである。

したがって、ゆだねるものである。お任せしてはじめて成就するべきものである。

人に生まれてくるときにもこの大きな大きな完全成立の機構にすっぽりゆだねて来たのだ。

わたしの力の及ばないことを心配してもしようがないのである。

生まれて来たときにはじめて産声を上げてよろこんだように、しばらくを期待に胸を膨らませながら、待っていればいいのである。

嬉しいことの前兆であるのに、それをことさらに渋面をして悲しんでなんかいなくてもいいのである。
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人を元気にする検定試験

2014年06月27日 10時06分39秒 | Weblog
人を元気にすることが得意な人がいます。いいなあと思います。とても真似はできません。

人を元気にする検定試験があったら面白いだろうなあと思います。5級合格だと5分間は人を元気にしてやれます。

4級だと30分、3級だと60分、2級になると3時間、1級合格者は6時間です。

6時間元気にしてもらうとたいがいの人はそれで自分の元気モーターが回り始めます。もう大丈夫です。



人の体が元気になる元気コースと、人のこころが元気になる元気コースと、そのほかにもう幾つかのコースがあります。

森を元気にするコースとか川を元気にするコースとかです。

宇宙を元気にするコースというのもあります。これに挑戦すると愉快が1万倍します。

でもスケールが大きいほどいいというわけでもなさそうです。

ちなみに雨蛙は4級検定の合格者です。



ともかくまわりを元気にすることができればいいなあと思います。

それよりなにより、自分なんかまわりの元気を抜かないようにしないといけないなあと自省します。



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自分の我が儘に付き合うのも大変

2014年06月27日 09時16分41秒 | Weblog
わたしは我が儘です。超がつきます。我が儘をしていられるときだけ、上機嫌です。わたしは上機嫌ですが、まわりはそうではありません。わたしが我が儘をするとまわりは不機嫌になります。それはそうでしょう。人の我が儘は圧力になります。従って、おもしろくしているのはわたしだけということになりますので、上機嫌が曇ります。

曇りから雨になることもあります。すると湿っぽくなってしまいます。自己卑下は多湿です。高慢ちきは高温乾燥性というところがありますが、自虐は低音多湿です。これも人を不機嫌にします。ちょうどいいところがいいのです。そうでないと結局は自他共に不機嫌を強いられることになります。不機嫌の空気は重くて呼吸がしずらくなります。

我が儘を治そう治そうとつとめなければなりません、ですから。で、人の居ないところへ行きます。森です。ここで小鳥の声や蛙の声を聞いて過ごします。森の中には小川も流れています。そこを歩き回ります。淋しさがこみ上げてくることになります。小鳥の鳴き真似をして小鳥を呼び寄せます。小鳥はやって来ます。雨蛙の鳴き真似をしても、蛙は集まってきてはくれません。

麻痺の左脚が痛がります。これにつられて腰がぎしぎし音を立ててきます。杖の先で叩いてみます。それくらいではポンコツ車の故障はよくなりません。ごろごろしている岩の上に座して休憩します。夕暮れが来ます。森を抜けて戻って来ます。わたしは我が儘者です。自分の我が儘に付き合っているのも骨が折れます。複雑骨折をします。だらしのない話です。
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おおうみの凪ぎが凪いでいる

2014年06月27日 09時02分24秒 | Weblog
お元気ですか。わたしは彼女にそう言う。一行を手紙に書きつける。封筒の表には住所がない。ないはずだ。そんな人はどこにも住んでいないからだ。

お元気ですか。彼女もそう返してくる。谺だ。ことばのブーメランだ。投げた人に戻ってくる。

お元気ですか。それが欲しいのだ。それが欲しくてこちらからまずはそのことばをしたためるのだ。そこにはやさしさがこめられている。おだやかな大海の凪ぎが凪いでいる。

住所もない人のやさしさが凪いでいる。途方もなく大きなおおうみの凪が凪いでいる。
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見よ見よ見よと促してくる

2014年06月27日 08時43分17秒 | Weblog
オオヤマレンゲの葉に雨滴が玉を造って光っている。葉は広い。なよなよしていない。割と頑丈である。先端に向かって細まっている。葉脈が中央に走って、そこが少しだけ谷になっている。そこへ玉ができる。雨は小雨だ。霧雨に近い。それでしばらくの間は玉が玉のままでいられるようだ。風は止んでいる。条件は揃った。そこで、オオヤマレンゲの葉の数枚が、劇場の舞台になった。観客はわたしだ。わたし一人を慰撫しようとして、露のいのちを美しく耀かせて見せて、それから退場する。また新しい雨滴が玉をなす。ふくらむ。光る。美しくなる。束の間の美しいわたしを、見よ見よ見よと促してくる。
これはわたしが神を呼んでいるときに見せるあの仕草だなと思う。葉上の雨滴からすれば、さしずめわたしが神の位置にいることになるが、この神はまっこと胡散臭い神である。それをひた隠しに隠して、わたしは美しい玉のいのちを見ている。
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善を食い潰し、悪を食い潰す

2014年06月27日 08時28分08秒 | Weblog
わたしの悪は、それ相応の善を食い潰す。わたしの善もまたそれ相応の悪を食い潰す。互を食い潰さないと頭角が出ない。頭角が出ないと息が苦しい。まあ、担いでいる天秤棒のバランス歩行のためには、しかたがございませんな。小舟が荒れ狂う海を揺れ揺れしながら、傾きながら、傾きを元に戻しながら、進んで行く。善もなすが悪もなす。悪もなすが善もなす。ごた煮だ。威張るこたあない、へしょげることもない。三郎はその時はそう思った。だが、その見解には落ち度があった。見るべきを見ていなかったのである。
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