<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

人間の持つやさしさにまみれていたいけど

2014年06月08日 09時31分29秒 | Weblog
山鳩が来ている。低音のバスで鳴いている。ぶっほう、ぼっほう、ばっふう、ばひぼぼっほう、などと聞こえる。樫の木の茂みあたりに止まっているようだ。



雨蛙もこれに負けじと鳴きだした。げっげっげっげ、がっがっがっが、ぐっぐっぐっぐ。山里はもうすぐ水遣りだ。田圃に水が入り出す。小川の水量が増える。



三郎はこのところ人に会っていない。人に会って人と話をしていない。会うのを嫌っているわけではない。山鳩や雨蛙を聞いていればそれでさみしさがまぎれてしまうので、わざわざ人のところまで行かないですんでいるようなのだ。



でも、会ってみたい。人間の持つやさしさにまみれていたい。こちらが会うということは相手もこちらに会うことになる。
三郎はのっぺらぼうだ。のっぺらぼうの三郎を見たら、見た人はげんなりになって言葉を失ってしまうかもしれない。



顔には毛がない。頭にも顎にも頬にも、毛がない。ストレス性無毛症だ。おまけにやせこけて眼下が深くえぐれている。火星人そっくりだ。よろよろしている。よぼよぼしている。これじゃ、相手にプラスの感情を供与できないよ。

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ここは死の世界ではなく生の世界だ

2014年06月08日 08時58分38秒 | Weblog
おはようさん。
おはようさん。

会話が成立している。

誰と誰?

一人はわたしだが、もう一人は?

もう一人は朝顔。



朝顔は人じゃないけど?

でも、意思があるから人扱いにする。

わたしが朝顔におはようさんというと朝顔もおはようさんと返してくる。

朝顔には声帯がないから発音ができない。それで中間に翻訳家が必要になる。この役も買って出る。



植物は無意思だ、と断定しないでいいのだ。意思があるからここにいることができるのだから。



そこに人格を認めてあげる。人格の別称は「こころ」である。つまり、こころを読み取るのだ。



かまってもらえると嬉しいのは人間と同じである。

向かい合っていられるのは嬉しいのである。

こころがあるのは人間だけ、だなんて壁を作らずにいると、世界中はみな親密な家族になる。



相手にこころを感じるのは、愛の出発点だ。

愛していればそこにみんなから愛されているという安心が生まれる。



この世界は愛でできている。そう考える。愛が朝顔に形をとったのだ。そしてここに存在をしている。

わたしの庭にはさまざまな植物が生えている。それがみんなわたしを相手に選んでこころを寄せてくる。愛を謳う。

こころがあって意思があってここはふかふかしてあたたかいところだ。

嘘と思うなら、それがみなそこにないと想定したら分かるだろう。庭は一変して殺伐としたところ、死の世界に激変するだろう。

死の世界ではなく、ここは生の世界だ。やさしいいのちの世界、愛の世界だということが合点されるだろう。
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