<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

青々とした森が初夏を楽しんでいる

2014年06月17日 17時59分18秒 | Weblog
活動を続けている生命体宇宙のの中心にいる者が終止形の死を迎えることなどありえようか。かたちの死は進化の過程である。形を持つ者は形を失うけれども、しかし、それはそうすることで引き続いて進化を遂げているのだ。森を見ているとそんな気持ちになってくる。見える限りの森は、死んで終止してなどいないからだ。青々とした森が初夏を楽しんでいるばかりだ。
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わたしの大きさをどれくらいにすればいいのか

2014年06月17日 17時34分19秒 | Weblog
わたしにはわたしの国境があるのですか?

ここまでがわたしです、ということがあるだろうか?

あるとすればそれはどこまでであろうか?

肉体の形と影の範囲内であろうか?

心というのは形を持たないから、線引きがしにくいかもしれないが、それでも線引きを強行した方がいいのだろうか?

その人にそれは、つまり国境線の線引きは任されゆだねられているのだろうか?

わたしを限りなく狭く小さくする方がいいのか、限りなく広く大きくするのがいいのか?

もしも国境がないとすればどうであろうか?

宇宙がすなわちわたしだと考えることにはどんな間違いがあるのだろうか?

豆の根にいるバクテリアはわたしではないとする考え方には間違いがないのだろうか?

わたしを限りなく狭く小さくすればそれだけ喜びも悲しみも狭く小さくなるのだろうか?



わたしがあるから宇宙が存在している。宇宙が存在しているのはわたしを存在せしむるためである。わたしのこころが宇宙を把握しているのであって、もしもわたしのこころがそれを認知しないのであれば、宇宙は存在していないし、存在することはできない。・・・という唯心論に立てばどうなるか?



唯仏与仏(ゆいぶつよぶつ)乃能窮尽(ないのうぐうじん)

仏と仏のみが乃ちよく相手を仏と見ることができる。



とすれば、宇宙という仏を仏と見るわたしもまた仏でなければならないことになってくる。宇宙大の仏と匹敵するほどの大きなわたしでなければならないことになってくる。

そうすればわたしに国境線などを引いて限界を小さく狭く設けてしまうことなどはできないことになるけれども、わたしは無明煩悩の人。相応にしておくのがきっと無難なのだろう。



膝をいるるに安んじるほどの狭く小さな家に住んでいるわたしである。つつましくしていていいようだ。
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よろこびの輪の中心にいるのはわたしだ

2014年06月17日 16時55分33秒 | Weblog
親鸞聖人の浄土和讃の中に、現世(げんぜ)利益(りやく)和讃十首がある。



現世利益とは「わたしがいまここで、いま現に守られている事実」ということである。
従ってあらためて願い、あらためて祈ることなどは無用になってくる。



和讃十首の最後にこうある。

「南無阿弥陀仏を唱うれば
十方無量の諸仏は
百重(ひゃくじゅう)千重(せんじゅう)囲繞(いにょう)して
よろこびまもりたまふなり」



囲繞とは「取り囲んで」くださっているということである。
十方無量の諸仏が取り囲んでいてくださっているということである。
十方とは東西南北の四方と北東・北西・南東・南西の四隅と上下の方角、すなわちあらゆる方角である。
もちろんこの囲繞の中心にいるのはまぎれもなくこのわたしである。
無量の諸仏とあるから、数えることなどはできないほどにひしめき合っている仏さま方である。
なぜそうまでひしめき合っていられるか。
それはひとえにわたしを守り抜くためである。
この図を想像してみると涙がくだる。



わたしを守るための仏さま方の囲繞の輪が100輪、1000輪のサークルを描いているというのである。

みな仏さま方がわたしを見ておられる。しかもそれをよろこびとしておられるというのである。

嫌々ながらではなく、わたしを見てわたしを守っていることによろこびを感じていてくださるというのである。



「南無阿弥陀仏を唱うれば」とあるが、これはこうするしかないからである。条件ではない。帰結である。

念仏することは条件ではない。念仏をするからわたしが守られているのではないのである。

念仏することが帰結である。そこに帰ってくるしか帰りようがないのである。



阿弥陀仏は無量寿仏+無量光仏である。永遠のいのちそのものを見せて来る仏である。永遠のいのちの持つエネルギーを
運んで来ている仏である。人間を超えている法の、働きの実態である。



宇宙のおいのちが永遠であるのだから、わたしのいのちもまた永遠である。それをわたしに知らしめて来る仏(慈悲そのもの、知恵そのもの)である。



百重も千重もしてわたしを守ろうとしている宇宙がある。わたしを囲繞するものは宇宙である。それが百も千も万も億も兆も輪を為して重なっている。それがそれをしている者のよろこびだというのである。



それをしている者がよろこびに満たされているときに、その中心のわたしがよろこんでいないということがあってはならないと思うのだが、どうであろうか。



わたしを守ることによろこびを禁じ得ないでいる諸仏の円陣は無限に広がっている。果てしもなく広がっている。そんなあり得ないことがあり得ているというのがすなわち現世利益(げんぜりやく)である。
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どこまでもどこまでも手厚く守られているもの

2014年06月17日 16時13分01秒 | Weblog
わたしのからださん、ありがとうございます。
わたしのこころさん、ありがとうございます。
わたしのいのちさん、ありがとうございます。
あなたがたの献身的努力のおかげで、わたしは一日を安寧に暮らしています。



そのわたしのからだをわたしに授けられた慈悲深いお力さま、ありがとうございます。
そのわたしのこころをわたしに授けられた慈悲深いお力さま、ありがとうございます。
そのわたしのいのちをわたしに授けられた慈悲深いお力さま、ありがとうございます。




そのお力さまが妨げなしに馥郁と潤沢に活動ができるようにせしめらたさらに大きなお力さま、ありがとうございます。
その大きなお力さまをそこに遣わされたさらにもっと大きなお力さま、ありがとうございます。
そのもっと大きなお力さまを明々と耀かされているさらにさらに大きな大きなお力さま、ありがとうございます。



その大きな大きなお力さまのパワーを、
一つ残らずわたしへわたしへと繋がるように仕組まれた雄大絶妙のエネルギー体さま、ありがとうございます。



わたしをよろこびで満たそうとしてくださっている横広がりの空間のご意思さま、ありがとうごじます。
わたしをよろこびで満たそうとしてくださっている縦広がりの時間のご意思さま、ありがとうごじます。



ありがとうをどこまで先に進ませてみても終わりが来ない。
どこまでもどこまでもわたしは限りなく守られている存在であった。
どこまでもどこまでも限りなくわたしは導かれている存在であった。

そのうちにわたしは涙を覚えてそこに立ち止まってしまう。
わたしがそんなにも気高くこんなにも尊い存在であることを知らしめようとなさっているご苦労を思ってに、わたしは涙を覚えてしまう。



その卓越した意思のもとにあるわたしが、たったわたしの体の死くらいで全体を心配をすることなど無用だったのだ。
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できないことはできないままでいい

2014年06月17日 12時32分27秒 | Weblog
雨が降っているので外に出ていけない。サイクリングもできない。



できないことを不満にするな。



できなければ、できることをすればいいのだ。



できないことはしないでいい。できる時に回せばいい。



雨が降る時には雨の風情を楽しむことができる。これは晴れているときにはできない。



その時その時でできることがある。楽しめることがある。だったら、これに乗じることだ。



「今度はこれをお楽しみ下さい」「今日はこちらをお楽しみ下さっていいようにいたしました」と言って来る。



素直にこれに従う。



毎日毎日わたしのよろこびのために用意されたこれらの新しいバラエテイショーはどうだ!



モミジの若葉が雨に濡れて少女のようにやさしく震えている。わたしはみどりの髪をしたつややかないのちを見ている。



いのちが隆盛しているときのいのちの深い安堵を聞いている。しばらくこれを聞いている。



これを見、これを聞くことができたわたしは、神々によって選ばれたほどの幸福者に変身している。



しとしとと雨が降っている。モミジの若い健康がこれを受けて震えるようにしてよろこんでいる。



それしきの設定ならどこにでもありそうな設定である。しかしそれでいい。それで十分であった。



今日は、そこに自然界の多くの叡智を見せてもらう機会に遭遇した。
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空想に実るのは甘い果物の実

2014年06月17日 11時45分53秒 | Weblog
どうやらわたしには空想癖があるようです。

空想は雲のようです。

わたしをやわらかに包んでくれるので、上昇気流に乗ってここにきて、隠れます。

雲はもやもやふやふやします。

居心地がいいので眠くなります。手枕をしてしばらくうたた寝をします。



空想をするのは自由です。

自由に空想ができます、誰もが。

大空の鳥になることも深海の魚になることもできます。神々になることもできます。

わざわざ鳥の形を捏ねなくともいきなり鳥になれるところが妙味です。

空想の深海だから空想の魚がかずかぎりなく泳いでいます。

厳かな神々も、変身してそうなってみると、そこにたむろしている神々は意外と気さくで、気さくなお付き合いができます。

拒否されるかなあと心配していたのが嘘のようです。

「どうです、いい気分でしょう」などという声もかかります。

「空想じゃなくてもいいのです。どうです、このままずっとあなたもわたしたちの仲間に加わっていませんか」などと誘われたりもします。



蝶々になっていると蝶々の楽しみが味わえます。

なったと思ったらそれでいいのです。

わたしはふわりふわりします、花畑の上を。いいとこどりをします。

いいとこどりだから、蜘蛛の巣にかかったりはしないですみます。

美しい花を次々と渡り歩きします。美しい花は美女になってわたしを招き寄せます。

あまりにも好き勝手にできるので、それですぐにこの楽しさにも飽いてしまいます。蝶を卒業します。



空想癖がある少年は現実を生きるのが下手に決まっています。

空気抵抗があるので飛行機が上昇を果たすのに、それを知らないで居るようなものです。ともかく抵抗が苦手です。

ですから真空地帯だけでしか呼吸ができないところがあります。ここは弱点です。

体力がつかないので、何年経っても相変わらずへにょへにょしています。

このへにょへにょを慰撫するためにまたもや空想が必要になります。

空想癖は慰撫を求めて渡り歩きします。

そして慰撫そのものの価値を蔑視しなくなります。

これでいいのだ、これが世界を生きることだと思い込んでしまうところが出てきます。



現実のくるしみこそが人間の骨組みを逞しく組み立てます。

抵抗を受けて傷だらけになって、切磋琢磨して磨かれないと光輝くことはありません。それはそうなのです。

その現実を逃避して、今日の空想癖のわたしはただ静かに雨だれの音を音楽として聞いています。



空想のいいところは未来へも過去へも飛翔することが自由だという点です。

わたしは死後の世界をも空想します。しかもそこを美しい花々で飾ります。ここに来ればここでもまた安心していられることを直感します。

するとふしぎやふしぎ、施無畏(せむい)が成立します。無畏とは心配はいらないということです。これも空想の結果の甘い無花果です。
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トマトがわたしのもとに歩いて来たのだ

2014年06月17日 11時15分14秒 | Weblog
トマトにはトマトの茎が伸びて葉っぱが広がっています。
葉っぱはぎざぎざしています。
トマトにはトマトの葉っぱのにおいがあります。
指先で触ると指先ににおいが付着します。
トマトにはいかにもトマトらしいかわいい黄色い花が着きます。
これが受粉すると赤い実になります。

今日は雨の日なのでトマトの全身が雨に濡れています。
葉末からしとしと雨だれの雫が根本に落ちています。
幹を伝って根本に流れ落ちてもいます。

わたしは一本のトマトのところへ来ています。
傘を差し掛けてトマトをしげしげと眺めています。
こうしているとふっとこころの交流ができそうな気持ちになります。
声をかけてみます。

わたしがトマトに向かって声を発したのですが、
わたしに声を発せしめたのはまちがいなくトマトの方です。
そんなふうに考えてわたしはもっと本気になってトマトを見ます。
わたしはトマトとふたりになれたような錯覚に陥ります。
しずしずと愛情の電流が相互に流れ渡ります。
わたしはこれで温まります。
その錯覚がわたしを酔わせます。
わたしはなんだか嬉しくなってしまいます。

わたしがトマトの処へ歩いてきたのですが、トマトがわたしのもとに歩いて来たと信じたくなります。
トマトがいまここにいなかったらさぞかし寂しかっただろうなとわたしは思います。
トマトがいてくれたことでわたしはしばらくほっとした時間を過ごします。
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わたしのこころに届いているもの

2014年06月17日 10時35分32秒 | Weblog
雨。大空から陸地に降って来るもの。
雨。陸地を濡らして潤すもの。
雨。潤していのちのすべてを育むもの。
雨。水を為して集まり川を下るもの。
雨。大海をふくらますもの。
雨。温められてふたたび大空に駆け上がるもの。
雨。流れ流れ、めぐりめぐるもの。
雨。つねに活動をしてやまざるもの。
雨。自然界の血液。
雨。天上の雲となって浮遊するもの。
雨。天と地を覆い尽くしているもの。

雨。しばらくわたしのからだの一部になってとどまるもの。
雨。わたしを出入りするもの。
雨。わたしの肉体のその圧倒的大部分をしめるもの。
雨。わたしを存続せしむるもの。
雨。わたしの敵ではなくわたしの味方をするもの。
雨。天地をまわりまわりしてついにわたしの血液をなし、温まって流れるもの。

雨。そうであるのに、他者を装うもの。
雨。べとつかず、あっさりして淡泊なるもの。

雨。天地一切のいのちを生かし続けているもの。
雨。決して死なぬもの。
雨。おのれは形を持たずしてどんな形にも流入しその形に同化するもの。
雨。めぐりめぐりすることで生き続けているもの。
雨。慈悲の権化であるもの。
雨。雨蛙をよろこばせて鳴かせるもの。

雨。水素と酸素からなるもの。
雨。活動するためのエネルギーをくまなく運搬しやすいように変異するもの。

雨。わたしの頬を濡らしているもの。
雨。わたしのこころに届いているもの。
雨。熱意を持つもの。
雨。下僕のようにすべてに従順であって働き、無限に尽くすもの。

雨。己の存在意義を語らないもの。
雨。わたしに語りかけて来て、それでもって満ち足りているもの。
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