<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

砂浜の砂山のように崩れる

2014年06月21日 10時48分04秒 | Weblog
三郎は愚かだ。自分に言い聞かせて言い聞かせていなければ安心が崩れてしまうらしい、砂浜の砂の山のように。



方便法身とは、わたしの愚かさに合わせて登場していてくださる仏さまのことである。



仮に方便としてわたしの前に阿弥陀如来として現れてきてくださるので、わたしはこれを見て、わたしを救済する仏のお姿を目の当たりにし、そこで安心することができる。しかしそのお姿はあくまでも方便法身である。



お手を合わせないでもいいのである、ほんとうは。お手を合わせてもらっているので、わたしは合わせないでいてもいいのである。



仏さまと取引なんどすることは無用だったのである、わたしが安心をしていさえすれば。



ところがそうはいかない。わたしは親の姿を見ていない幼児のようにおろおろして不安がるのである。



不安がらなくともいいのである。わたしに仏さまの照準がぴたりと合っているので、わたしが息をしていられるのである。



息をしながら、まるで息をしていなかったような顔をして、息ができないような暗い顔をして、不安がるのである。



仏さまなど登場してもらわなくともよかったのである。わたしが愚かでなければわざわざ登場をしていただくことはなかったのである。



極重悪人唯称仏 ごくじゅう あくにん ゆい しょうぶつ
我亦在彼摂取中 が やく ざい ひ せっしゅ ちゅう
煩悩障眼雖不見 ぼんのう しょうげん すい ふけん
大悲無倦常照我 だいひ むけん じょう しょうが

わたしのような極めつきの悪人を仏さまがただただ手を合わせて祈っておられますので
わたしがまんまと仏さまのお救いのみ手の中にふんぞり返っておるという次第
それでもわたしの眼は、煩悩に覆われて仏さまを見ようともしておりませんが
それを百も承知で、仏さまの光が、わたしを捨てもせずずっとひたすら照らし続けています



仏などいるものか


おられません

悪人のわたしひとりの
独り占めをしておりますので
そのほかに
仏さまなどはおられません



山は仏である
空は仏である
風は仏である

わたしを
よろこばそうよろこばそうとして
山になって
空になって
風になっておられる仏
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箒を振りかざして雲の峰を掃除する

2014年06月21日 09時15分37秒 | Weblog
心配無用なのに心配をしているのである。



これじゃ、心配好きとしか言いようがないではないか。



心配をしたとしてどれほどのことがあろう。どれほどのこともないのである。



箒を振りかざして大空の雲の峰を掃除できると思っているようなたぐいの虚妄なのである。虚妄の処方箋なのである。



わたしはもうすぐここを去る。その準備も不用だ。行き先の心配も無用だ。どうやって行くかも考えなくてよい。



それよりなにより、此処に居る間はここの暮らしを楽しんでいればいいのである。



お仕事をなさるのは一から十まで法性法身の法(ダンマ)そのものであって、わたしではないからである。



わたしの始末なのに、わたしはまるで関わってはいないのである。



わたしはここにいることをよろこんで、遊びほうけていればそれですむのである。



それでものの見事に、蛹(さなぎ)のわたしは羽化をして蝶々になるのである。



蝶はさらにまたこの世の形を捨てて不死の蝶に進んでいく。この世のならいによればそれは不死ということになるが、次の世の表現ではただ「進行をした」に過ぎない。



人間の三郎が夏草を刈っている。青い草の匂いがたちこめている。それがこの山里を潤ませている。
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明日も仕事が入っていたためである

2014年06月21日 07時40分12秒 | Weblog
旦那様
「夕べに死すとも可なり」の
その夕べが来ておりますが
どういたしましょう
ご常法どおりの
「可なり」で
よろしゅうございましょうか

ならぬ

この日も
三郎はそう答えてしまった
明日も仕事が入っていたためである

三郎を旦那様と呼んだ毒蛇は
決まり悪そうに
しゃんしゃんしゃんと尻尾を鈴にして 鳴らして
それから
去って行った
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これがないとわたしはわたしになっておられない

2014年06月21日 07時06分44秒 | Weblog
我が身を磨りつぶして粉にしようとも、わが骨が砕かれてただの砂粒になろうとも、それでもなお、なおなお、ご恩に報いねばならない。



如来大悲の恩徳は身を粉にしても報ずべし。師主知識の恩徳も骨を砕きても謝すべし。

恩徳讃にこうある。



ご恩に報いねばならないが、報いることはあり得ない。ご恩の大きさ深さ高さの、その1兆分の1すらも、わたしが報い得ることはないのである。



そもそも報謝など求めてはおられないのである。そんなにみみっちくては如来にはなれない。如来失格である。お返しを要求するのは人間の側の話で、如来の大悲はそんなこすっからくはない。



如来大悲とは、わたしをわたしたらしめていている力のことである。わたしがわたしになっていられるその大本の力のことである。これがないとわたしはわたしになっておられない。

(師やご主人様や善知識の人々も、わたしがわたしであり得るためにはなくてはならない存在であるからご恩が深い)



それに第一、我が身を磨りつぶしたこともない。我が身は大事大事である。磨りつぶそうなどと思ったこともない。骨を砕くまでに苦労をしたこともない。その献身からはほど遠い。



ただいただくばかり。

いただいて、かたじけなくて、ほろほろ泣くばかり。

ご恩を報じることなど夢の又夢。



わたしが
わたしになっている

この摩訶不思議なからくりに
ほろほろほろほろ泣くばかり
うっとりうっとり泣くばかり

わたしを
わたしたらしめているお力さまの
大きさ
高さ
深さを
思うだけ思って
今夜はもう寝る
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どっちへどう転ぼうとそれはそれでいい

2014年06月21日 06時37分46秒 | Weblog
それでいいのである。ともかくそれでいいのである。心配は要らない。それで完結しているのである。

三郎はふっとそれを思う。

どっちへどう転んでもそれでいい、というこの安泰はどうだ。どっちへどう転んでもそれはたちうどころに完結を見せて来る。

自然現象もそうだが、三郎のなすことやることもそうだ。

どっちにしようかと迷う必要がない。どっちだって正解に繋がっているのだから。

宇宙の真理さま、宇宙のエネルギーさまが、しょっちゅう三郎の後をついてきて丹念にこれをしてくれている。

正解そのもののど真ん中を三郎は歩いているようなものだ。不思議だ。エラーというものがまるでない。

それをそうせしめられている三郎という男は、すると、宇宙の真理さまよりも偉大ということになってしまうが、しかし、事実そうだから、あながち傲慢でもあるまい。

それでいいのである。死んでもいいのである。生きてもいいのである。

ここに留まっていてもそれでもそれでいいのであるし、ここを後にして次の旅に向かって行っても、それはそれでいいのである。

心配がまるでいらないのである。すべてがたちどころに完成を産んで美しいのだ。あれをしたらどうなるだろう、これをしたらどうなるだろうの疑心が起こらない。

もちろん、死んだらどうなるだろうという自力の不安は、ここには不在なのである。あるのは他力の安心だけである。

三郎をたちどころに完了完結させてくる他力の、摩訶不思議なこの力にすっぽり納まっているきりで、それでいいのである。

三郎は芥子の実のように小さい。軽い。浮力でふわりとしている。これを風が吹いて飛ばしてくれる。三郎は風に乗る。他力とはこの風に類似している。
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流し目をしてくる理由

2014年06月21日 05時58分20秒 | Weblog
いとおしくって、いとおしくって、ほっておけないで、脇芽を摘んで土に挿しておく。トマトの脇芽である。茎から葉っぱが横に広がるその股のところに脇芽が出て来る。これを摘んで、しばらく水につけておくとここから白い根が生えてくる。「わたしを土に挿してください」と彼女が命令する。三郎はこれに従う。土に挿す。毎日水撒きをしてやる。油粕の施肥をする。どんどん成長してくる。三郎は支柱を立ててこれに紐で結んでやる。いよいよしっかり育つ。花を着けて実を実らせる。「おまちどおさま、さあどうぞ、もうわたしを食べて下さってけっっこうですよ」彼女が美しいほほえみを浮かべる。三郎はこれをもいで、がぶりと歯形を付ける。

元の親のトマトと肩を並べるまでにたくましくなって、またもや脇芽を着けてくる。次から次に。三郎はこの生命力を不思議がる。驚嘆する。いのちの伸び上がりがいとおしくっていとおしくってならなくなる。摘んで土に挿してあげる。人間はこうはいかない。人間の指を切っておいたら、そこからまた元の本体が伸び上がって来て、完全な1になるという生命現象は起こらない。植物のトマトにはそれができる。1代で次世代、そのまた次の世代をも同居させ得る。どうしてそんな器用なことがトマトには許されているのだろう。この増殖、この生命連鎖がふしぎでならない。

トマトの葉っぱをちぎって指の平で揉むと独特の臭いがある。三郎はこの臭いがたまらなく好きだ。わたしの匂いを忘れないでね、と彼女は言う。オーデコロン香水をふりまいたイタリアの女性のそれよりもっといい匂いだ。

トマトは挿し芽ができる種族の一つだ。魔法を使える。しかし、残念なことに、自分で完結はできない。三郎がどうしても必要になる。摘んで土に挿してやらないと生命増殖が実行に移行しない。三郎は、だから、トマトの魔法を実現してやる魔法使いなのである。トマトが三郎に流し目をしてくる理由がここにあるのだ。トマト姫の美しい流し目は、かくて妖しいまでに魅力を放ってくるのである。ふたりは恋に落ちる。
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