<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

病はわたしの炊飯器

2014年06月03日 15時50分58秒 | Weblog
病むときが来たので
病んでいる

こうするのが
わたしの今には
もっともふさわしいから
じたばたをしないでおく

わたしの今にばかりではなく
わたしの明日にも
もっともふさわしいから

病はわたしの炊飯器

わたしは朝ごとに
これでふっくら炊きあがる
炊飯器は
わたしをふっくら炊きあげる
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すべてがうまく回転をしている

2014年06月03日 15時47分10秒 | Weblog
わたしが
黄蝶を飛ばしているのではない

黄蝶が
みずからで飛んでいるのである

これで
すべてがうまく回転をしている
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全体のおのずからのわざに安らいでいていい

2014年06月03日 14時57分54秒 | Weblog
わたしが
黄蝶を飛ばしているのではない

黄蝶が
みずからで飛んでいるのである

わたしが
黄蝶を自在に飛ばす能力を身につけて
黄蝶を自在に飛ばしたとすれば
どうだろう

どちらにしても
黄蝶が飛んでいることには変わらないが
自在に飛ばしたとすれば
わたしはそれで
わたしの能力の高さを認識して
得意満面になるであろう



青い山があるのは
山の力によるものである。
わたしがあらしめたのではない

わたしがあらしめるという努力をしないでいい分
わたしは助かっているのである
そうであるのに
わたしは賢者を装って
わたしが一役買っていたからだと自負をしたがる

青い山ばかりではすまなくて
わたしの力で
人を動かそうとする
わたしの高い能力を発揮して
社会を変えようとする

そこに人間の意思を汲み取らせたり
わたしの能力を
そこに介在させたりして
そこではじめて
わたしの存在価値をいや高からしめる

そういう愚を
日常に平気でしている



大海の水が海底を覆っているのは
海自身の力量である
だから海にまかせていれば
海はおのずからに満ちるのである

黄蝶は
おのずからにして飛んでいる
青い山は
おのずからにしてそこに隆起している

全体の
このおのずからのわざに
わたしは安らいでいるだけで
よかったのである
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病んで第二の矢を放たない

2014年06月03日 11時30分35秒 | Weblog
仏陀の説法の中に、「第一の矢は受けても、第二の矢を受けず」というのがありました。第一の矢は外から自分に向かって発射された毒矢。それに対して第二の矢は、第一の矢の後にみずからがみずからに放つ毒矢である。やけのやんぱちに成るのもこれだ。



第一の矢から甚大な被害を被る。すると被害者意識が高じる。暗くなる。暗澹とした目つきをするようになる。陰険になる。自他をやたらと責めるようになる。恨むようになる。これが第二の矢だ。



第一の矢はただの一矢にすぎなかったのに、第二の矢は、矢数がうんと増えているのが特長だ。



病になったといううのが第一の矢だ。これはある意味避けがたいところがある。病になったということ、それをどう見るかが問われるのだ。腕試しされるのだ。



「おまえはこれをどう見て、どう向き合うか」を突きつけられる。そしてそれにどう答を出していくがが要求される。ある人には、この期間はこれを乗り越える力の養成期間になるが、ある人には、絶望の火に焙られる期間ともなる。



病という現象を空(くう)と見ることもできる。病そのものは毒でも薬でもない。それを見た人がそれを猛毒と判断したり休養薬と判断したりするのである。



第一の矢に塗られた毒矢の毒は、たしかに毒が塗られていたとしても、これを受けたすべての人に毒として作用するのではない。作用したとしても、重症に陥るか、軽傷で免れるかは人それぞれである。



植物には毒を持つ植物もある。この毒は外敵には毒であるが、みずからには毒として作用することはないから、毒そのものは絶対毒性ではない。毒はあくまで外敵の侵入を防ぐ手立てである。外敵がこれで退散できるということを認知したのでこれを毒として働かせたのである。



薬用植物という植物がある。まさか植物が人間の病を治療するがためにわざわざ山野に生えているというわけでもあるまい。薬用にしたのは人間の魂胆である。そこに薬を見て取って、このハタラキを善用したのである。



ものごとのすべてを悪とは決めつけられない。すべては両面性を持っている。植物の葉っぱはどれも裏と表を同時に持っている。裏がない葉はないし、表だけの葉もない。つまり併せ持っているのである。ハタラキの働かせ方次第で明るくも暗くもなり得るのである。



わたしも老いた。老いに病はつきものである。病を捕縛しても、捕縛されないようにしたいものである。
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わたしの異性のあの人は神秘

2014年06月03日 09時59分21秒 | Weblog
赤ん坊の握り拳大のオオヤマレンゲの花が大きな葉陰で下向きに咲いている。白い花弁が重なり合っている。下向きだから雨を避(よ)けられる。近くへ寄ると匂いに届く。ふんわりとした匂いに包まれる。あの人の匂いだ。あの人に届いたような錯覚に襲われて身震いする。会いたい。わたしはそれを思って、これまでのぼんやりを切断することに成功する。蘇生する。匂いは人間の動物意識を刺激する。わたしの官能を刺激する。五感へ拡大して、思考連鎖を起こさせる。異性の白い肌が現れてくる。オオヤマレンゲは高山植物。山里ではなかなか咲かないので、山に登らない者の目に触れることはあまりない。いわば神秘の花だ。神秘のベールで覆っていればそれだけ余計に期待が募る。わたしの異性のあの人も神秘そのものだ。イマジネイションの山頂、雪のアルプスでやっとふたりはひとつの抱擁になる。
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雲雀の幼い雛の声かしらん

2014年06月03日 09時01分16秒 | Weblog
九州地方も梅雨に入ったらしい。昨日に引き続き、今日も朝からしとしと雨が降っている。気温も低下してクシャミが出る。長袖の上にジャンパーでも着込みたいほど。この雨では畑に出て行けない。草取りができない。



ドボルザークのシンフォニーNO9を聴いている。これを聴くとからだの細胞がよろこぶのが分かる。たちまち筋肉の緊張が解ける。条件反射をするようだ。わたしは音楽の知識があるわけではないので、だらしなくうっとり酔い痴れているだけだが。



雲雀が鳴いている。雲の雀だが、雨降りの暗い空には雲がない。どこで鳴いているのだろう。ピーピーと甲高い。麦刈りがほぼすんで、田植えに必要な水が張られようとしている。麦畑の中でしていた子育てはもうおわったのかしらん? もしかした生まれたばかりの幼い雛の声かしらん?



いのちが次へ次へ渡る。そして新しくなる。新しくなったよろこびがあふれてくる。古くなったいのちがこれを聞いて安堵する。山の小鳥たちの恋の季節が、次の子育ての季節に変わる。雲雀の幼い雛が鳴いて来る。鶯の幼い雛が鳴いてくる。山鳩の雛が鳴いて来る。



古くなったいのちを嘆き悲しむことを回避させてくれるのはこうした新しいいのちの声である。次のいのちが確かに力強く動き出したことを知ることは、古いいのちの安らぎなのだ。わたしという個のいのちの悲しみが、種族のいのちのよろこびに変貌する。ここで新陳代謝がおこるのだ。

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