7)今日は終わった。もう日もたっぷり暮れた。一日が一生である。あとは眠っているだけで明日になるだろう。生死の解決は無用なのかもしれない。そうなのだ、あとは眠っていればいいのだ。
死の目が覚めたら、そこには永遠のいのちの国が新しく立ち上がっているだろう。それまでは深々と眠っているだけになるだろう。
さぶろうよ、なんじは為すべきは安らいでいることだけだ。ここにいる間はここにいることを安らぐことだけだ。
7)今日は終わった。もう日もたっぷり暮れた。一日が一生である。あとは眠っているだけで明日になるだろう。生死の解決は無用なのかもしれない。そうなのだ、あとは眠っていればいいのだ。
死の目が覚めたら、そこには永遠のいのちの国が新しく立ち上がっているだろう。それまでは深々と眠っているだけになるだろう。
さぶろうよ、なんじは為すべきは安らいでいることだけだ。ここにいる間はここにいることを安らぐことだけだ。
6)死も不死も仏陀の任務である。仏陀が偉大であるから、死も不死もともに偉大なことであって、そこを経験するだけで、人はたちまち偉大を勝ち得ていくようになるのかもしれない。
4)答はある。一度死んだから二度と死なないで済みます。死の国境を越えるとそこは不死者の国である。死んでみたら解決するのである。「なあんだそういうことだったのか」「だったらジタバタするんじゃなかった」もしかしたらそういうことになるのかもしれない。
5)そこでは、すべてが用意されていて、すべてが完了していて、ひどく平和でのどかで。心配することは何もなくて。国境越えは至って他愛のないことなのかも知れない。
3)さぶろうはどうなんだ? 生死無執着というところまで進んで来たか。進んで来ていない。「これをこうしたら死なないですみます」の解明に血道を上げているところがあって、煩悩の籠の鳥がばたばた騒いでいる。何処まで行こうとただ一片の煩悩でしかないのに、それを承知で尚且つ藻掻いている。
2)死と不死。永遠の課題だね。地球上の人が入れ替わり立ち替わりして死んでも死んでも死んでも課題として残っている。新しく生まれても生まれても生まれても、この課題が乗り越えられなくて残っていく。人類の遺産のようにして残っていく。そして最後はみながこの課題の解決を諦めていくしかない。
1)ブログ。「これをこうしたら死なないですみます」という内容のブログで、しかもそれが嘘偽りではなかったら、世界中のみんなが読むだろうね。そりゃ読むだろうね。いや、読まない人もいるだろうね。「人間、その時が来たら死ぬからいいんだよ」という人もいるだろうね。生死無執着を悟って行く人もいる。
九条葱の畝と畝の間の草取りをした、夕方。肥料をたっぷりしているから雑草も元気がいいのである、冬でも。草取りをした後は土寄せ手をしてやった。土寄せをすると寄せたところだけ根株が白くなる。白くなった部分は甘くなる。これをすき焼きの鍋や水炊きの鍋物にいれるとおいしい。吹いて来る風が寒いので鼻水が垂れた。老爺が幼児のように瑞々しい鼻水小僧になった。おかしくて笑いも零れた。
こっくりこっくりしている。こっくりは老人の仕事である。何もすることのない老人の唯一の仕事である。炬燵の中に足を入れて座椅子に凭れてこっくりこっくり。こうしてやがて到達する地点までの距離を縮めて行く。ゆっくりと。であるから、腹が減らない。食べることにもだんだん興味が萎えていく。身が細る。こころが細る。これでいい。これでいいのだ。老人のする仕事とはまさしく死までの距離をおいおい縮めて行くことなのだから。雪がまだ残っている。北向きの屋根瓦の影の部分にうっすら残って消滅に耐えている。日が笹藪のあたりから翳って来た。
生きているというのはどういうことなのだろう。死んでいないということだろうが、では、何処がどう違っているのだろう。肉体である間は生きているということができる。肉体を失うと死んでいるということになる。決めての鍵は、そうすると、肉体のあるなしというところのようだ。なんだ、そうするとわたしではなくて肉体が生きていたということなのか。だったら、随分と大きな顔をしていていいだろう、肉体は。生死を分けているのはこの肉体様なのだから。肉体はお殿様、帝王。臣下となる者はこれに大事に大事にお仕えをしなければなるまい。朝から降り続いていた雪が、正午を待って止んだ。お昼ご飯をお供えした後、帝王様を連れて外に出てみようか。
雪が降っている。隣家の屋根に雪が降り積もっている。我が家の庭にも降り積もっている。山里がすっかり雪化粧をした。見渡す限りの清浄世界となった。牡丹雪が静かに降り積もっている。