<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

お腹が空かない

2017年01月18日 12時56分22秒 | Weblog

お昼になった。お昼を過ぎようとしている。お腹が空かない。炬燵に一人。2時からは病院へ行って検査結果を受け止めてこようと思う。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

穴蔵の外は太陽の光に満ちている その3

2017年01月18日 12時51分42秒 | Weblog

わたしは仏陀によって、法によって、救われて行く身である。安心していていいのである。(さぶろうの結論は決まってここになる)

太陽という1兆億円札。恐怖という1円札。不安という1円札。病という1円札。煩悩という1円札。眼が開かないさぶろうは1円札を、いたくいたく大事にしている。それにも気づいていないけれど、しかしなお、堂々と堂々と救われて行く身、生かされていく身である。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

穴蔵の外は太陽の光に満ちている その2

2017年01月18日 12時47分16秒 | Weblog

でもね、わたしを殺そうとする仏陀はいないのである。わたしを生かそうとする法はあっても、わたしを殺そうとする法はないのである。

仏陀はすでに仏陀と成られているのである。色身仏(肉体の姿をしている仮の姿の仏)から法身仏(ダンマそのものの仏)となっておられるのである。法蔵菩薩は阿弥陀如来となられているのである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

穴蔵の外は太陽の光に満ちている その1

2017年01月18日 12時34分54秒 | Weblog

穴蔵の外は太陽の光に満ちている。満ちているが、わたしはいつもいつも暗い小さい穴蔵を目指す。そこで息を潜めている。太陽を見ないでいる。小動物なのだ。

だが、それでどうやらいいということでもあるらしい。しばらくはそこにいてもいいということらしい。そこで暮らしている。不安と恐怖と煩悩といっしょに暮らしている。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

穴蔵の外に出ると太陽が見える その7

2017年01月18日 12時33分10秒 | Weblog

不安や恐怖は我が穴蔵の中で起こっている。そこを出て行けばよかったのである。穴蔵の外に広がっている真如界に出て行けばよかったのである。そこにはすべてを生かそうとする太陽の光が輝いているばかりなのだから。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

穴蔵にいる間は太陽が見えない その6

2017年01月18日 12時27分23秒 | Weblog

如来常住す。法は無有変易なり。我も亦常住す。この法則は変易しない。

結論を急いでしまったが、約(つづ)めて言えば、安心をしていていいということである。何がどうあろうと、何がどうなろうと、今がどうであろうとも、安心をしていていいと言うことである。わたしが穴蔵に潜んでいようといまいと、太陽は輝いているということである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

穴蔵からは太陽が見えない その5

2017年01月18日 12時21分55秒 | Weblog

「如来常住 無有変易」はお釈迦様が説かれた涅槃経典の大きなテーマである。「色身仏ではなく法身仏となられた如来は、無常ではなく常住であって、滅ぶことなく壊れることなく、変易すること有ることなし」のテーマを掲げている。

太陽はここでは真如、真理のことを指している。法のことを指している。仏陀の教えである。如来という法身仏の輝きである。そして我々一人一人が必ずその常住不変の法身仏になって行くというサジェスチョンを仄めかしている。

そういう尊厳の大空にいる己が病と太陽を取り替えて商談成立させているではないか。病という暗雲ばかりが大空のように広がってしまうのだろう。畢竟、さぶろうは無明なのだ。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

穴蔵からは太陽が見えない その4

2017年01月18日 12時19分40秒 | Weblog

何か立派な理由があるからだろう。そこに身近な快楽があるからなのだろう。肉体の穴蔵の中の怪しげな快楽が。真理よりも肉体という穴蔵を愛しているのだから。

なぜ穴蔵の中で小さく小さく生きるのか。なぜ暗く暗く悲しく悲しく生きるのか。なぜ快楽をそこに付着させて、眼前を塗りつぶしてしまうのか。太陽が見えないように目つぶしをくらわしているのか。何故広大な真理の世界に出ようとしないのか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

穴蔵の中からは太陽が見えない その3

2017年01月18日 12時10分13秒 | Weblog

穴蔵を好むのは何故か。煩悩を好むのは何故か。病を好むのは何故か。悲しみを好むのは何故か。間違いを好むのは何故か。暗い穴蔵が一生涯も何故好きなのか。なぜ燦々と照る太陽の元に出て暮らしたいとは思わないのか。なぜ己の暗い小さい判断の内側に籠もってしまうのか。そこを出ようとしないのか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

穴蔵からは太陽が見えない その2

2017年01月18日 12時04分18秒 | Weblog

煩悩という穴蔵に入っているときにも明るい太陽は見えない。光は射していないと即断する。光は射しているのだ。こんなに簡単に分かるようなことでも、そうではないと思い込んでしまうと、いつのまにかすり替えが完了してしまう。それで終日、暗い暗いと悲しむことになる。さぶろうはとことん愚者である。

病という穴蔵に入っているときにも太陽が見えない。太陽と病をすり替えてしまっているのだ。太陽よりも病の方の大きさが大きいと思って勘違いを通しているのだ。悲しみという穴蔵に籠もっているときにも太陽が見えない。そこに光があるのに己の無明によって消されている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする