今日の夕食は大蒜(にんにく)料理でした。おいしいのでぱくぱく食べました。明日はお客さんが来られることになっています。すぐに入念に歯磨きはしましたが、それでもさぶろうの息が臭いと仰(おっしゃ)るだろうなあ。どうしよう。きれいなおんなの人なのに。嫌われてしまうだろうなあ。会っている間、息をしなければいいのだろうけど、それは無理だなあ。
ここは仮の世です。かりそめの世です。虚仮の世です。この世を蔑(ないがし)ろにするつもりはありません。大切にすべきところです。でも、ここで打ち止めにはなっていません。続いています。真実の世に続いています。真如界に開かれています。背景に仏陀の世界があります。これに裏打ちされています。すべてここ(仏陀の世界)に報われて行きます。
これはさぶろうの諒解です。そういう安心を見出そうとしているのです。
今日取り上げているテーマはわたしの手には負えないようです。だから独断が過ぎています。さぶろうは錯誤をしています。手探りです。でも、安心をしたいのです。
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「わたしは仏に成りません」と仰っておられるのは法蔵菩薩です。ですが、法蔵菩薩は誓願が成就して阿弥陀仏になられました。成就するためにはどうしても阿弥陀仏にならなければならなかったのです。ですから成っておられます。
なっておられますが、果たされていないことがあります。それはさぶろうのことです。さぶろうはまだ仏には成っていません。さぶろうが仏に成っていない内は、約束では、仏に成るのを猶予しておられることになります。さぶろうが極楽往生を果たさなければ阿弥陀仏は仏の資格を抹消されます。それほどにさぶろうの成仏は不可避なことなのです。一対一の果たし合いのようなものです。両者とも避けて通れることではありません。
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さぶろうが「至心に信楽すれば」とか「乃至十念すれば」とか難しい条件を挙げてはおられますが、そんな条件に拘泥することはありません。そこに至らしめるのも仏さまのお仕事だからです。さぶろうにその力量はありません。仏の世界を示して下さらねばさぶろうには見えません。あるかないかも何にも分かってはいません。分かるように尽くしてくださらねばまるでお手上げです。頭のいい人だけがこの大学には入れますなどということとは違うのです。失礼な物言いですが、条件付きを提示するくらいの仏さまには値打ちはありません。救済は無条件です。仏の救済は徹底して無条件です。
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どんなさぶろうだって仏に成って行かねばならないのです。そして成っていくのです。安心をしていていいのです。阿弥陀仏を南無していればいいのです。阿弥陀仏の国があるのです。極楽浄土へのさぶろうの往生が待たれているのです。さぶろうはしかし今はこの世で艱難辛苦をしているばかりです。これはさぶろうのこの世での姿です。
これはさぶろうがさぶろうに言い聞かせていることです。さぶろうの独り合点です。万人向きではありません。
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設我得佛 十方衆生 至心信樂 欲生我國 乃至十念 若不生者 不取正覺
設(たと)い我(=法蔵菩薩)仏を得たらんに、十方の衆生が至心に信楽して、我が国に生まれんと欲して、乃至十念せんに、若(も)し生まれずんば、正覚を取らじ。
「仏説無量寿経」「第18願 念仏往生の願い」より。
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ここには実にショッキングなことが述べてあります。
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訓読するとこうなります。
設(も)し我れ仏を得たらんに、十方の衆生、至心に信楽(しんぎょう)し、我が国に生ぜんと欲して、乃至十念せんに、若し生ぜずば、正覚を取らじ。
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もう少し分かり易くするとこうなります。
たとい我、仏を得んに、十方衆生、心を至し信楽して我が国に生まれんと欲うて、乃至十念せん。もし生まれずは、正覚を取らじ。
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意訳するとこうなっています。
私が仏となる以上、(誰であれ)あらゆる世界に住むすべての人々がまことの心をもって、深く私の誓いを信じ、私の国土(=極楽浄土)に往生しようと願って、少なくとも十遍、私の名を称えたにもかかわらず、(万が一にも)そこに往生しないということがあるならば、(その間、)私は仏になるわけにいかない。
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わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません 。仏には成りません。
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念仏は仏とさぶろうとの会話です。相互取り決めです。頷き合いです。さぶろうが仏を思うと仏がさぶろうを思います。仏がさぶろうを思うとさぶろうが仏を思います。
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仏さまの国に生まれるということは、さぶろうが仏の世界に生きるということです。仏の世界があるということです。そこに行って、生まれたら、わたしは仏としての待遇を得るのです。その約束が不履行になればどうなるか。それはただちに仏さまの不信ということになります。仏さまではなかったということになってしまいます。そうなれば「わたし(法蔵菩薩)は仏(阿弥陀仏)と成りません」と誓っておられるのです。
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ですから、さぶろうは必ず仏の国に生まれて、約束通り阿弥陀仏と寸分変わらぬ仏に成るのです。似て非なる仏にさせらることはありません。ずばり同一体同一心です。(ここらへんはさぶろうの独断です)ならなければ、法蔵菩薩の約束が破られてしまいます。何が何でもさぶろうは往生極楽して成仏完成しなければなりません。
声なき声が有る。姿なき姿が有る。
声なき声は聞こえて来ない。姿なき姿は見ることができない。
それを聞く。それを見る。
こころの耳で聞く。こころの目で見る。
それを同感しそれを同信する。それを受け止めそれに力を恵まれる。
ものには背後が有る。それをそうせしめている力がある。そこに思いを致してみる。
病むと、健康であればもう何の不平もないと思う。元気であれば一切文句はないとも思う。病まないときにはそんなことは思わない。不平を言い、文句を並べる。元気で働いている人を見るとああ幸せな人だと思う。健康でスポーツを楽しんでいる人を見るとそれだけで羨ましくてならなくなる。病まないときにはそんなことは思わない。なんだろうこれは?
寒いなあ。春じゃなくて、こりゃ冬だなあ。厳冬だなあ。日本列島はあちこちで豪雪の予報。積雪が数メートルというところもあるらしい。ここは九州だからそれはない。先日、初雪が降ったが昼を待たずして解けてしまった。それっくらい。でも、寒い。僕は炬燵に入りながらなおもジャンパーを着込んでいる。手袋もしている。さすがに襟巻きはしていない。押し入れから見つけ出してきたら、してもいいなあ。これから自動車屋さんに行って来る。点検の日。代車を貸してもらうことになっている。このところ気が滅入っているから、気分転換を図ってみたい。といって老爺を迎えてくれるところはない。勇み立って行くところもない。財布が空っぽのこの老爺は競輪競馬競艇パチンコなどの遊び事をしない。したら案外面白いかも知れない。ビギナーズラックで気分が晴れるかも知れない。そんなうまい話は、しかし、なかろう。ま、せいぜい映画くらいかな。深刻なのは嫌だな。「となりのトトロ」相当の楽しいアニメくらいがいいな。