年取り行事を済ませた後で外に出た。正月の年取りだけはきちんと和服で過ごす。帯も締める。足袋も履く。羽織も羽織る。それをことごとく脱ぎ去って、いつもの作業着に着替えた。畑へ行って、低い丸椅子に座って小葱の間の草取りをした。黙々黙々とした畑仕事。手指が真っ黒に汚れた。これがさぶろうにとっても似合っていた。落ち着いた。風はなかった。寒くはなかった。
1)翻って考えてみると、これまでに今日を迎えるための「すべてがなされた」ので、今日のわたしがあるのである。
2)まずそれを感謝しようではないか、さぶろう。
3)「これまですべてが成された」というのは、「今日のわたしに至り着くまでに必要だったもの、必要とされた条件がすべて満たされた」ということである。
こんなに目出度いことがあるだろうか。祝って祝って、舞を舞っていいくらいだ。
4)「すべてがなされた」というのは「すべてを為した」行為者がいるということにもなる。
5)だが、この行為者はここには登場しない。曖昧になっている。
6)「なされた」というように、ただ受け身表現になっている。
7)それともオートマテイカリーにということだろうか。
8)それがそうなるには行為者を必要としていなかったということだろうか。
9)ただ自動的にそうなったという受け止め。それでもいいのかもしれない。
10)しかしそこにしばらくでも行為者を思うと、それに目を瞑ってはいられなくなるだろう。冷淡ではいられなくなってしまうだろう。
11)ともかくわたしの今日をあらしめるために必要だったこと、そのすべてを残らず完全完璧にあらしめた事実があったのである。
12)そこを思いやるとしみじみとなる。
13)兎にも角にもわたしの今日が発現するために「すべてがなされた」のだった。
14)わたしを導き出すすべてが「成就した」のである。滞りなく成就したのである。
15)そこに到るまでにさまざまなトラブルがあったかもしれない。
16)それはわたしの目には見えていない。おじゃんになりそうな事件も頻発したかも知れない。
17)そこを乗り越え乗り越えして来たのである。
18)2017年新年の元旦のわたしを導き出すためのすべてが成就した。そういう結果に至った。
19)こう考えるとやにわに、この結果に付着しているおめでたさの濃度が濃密になって来るではないか。
20)すべてがなされたのだった。しかしいったい誰にお礼を言うべきだろう。
今日から真新しい2017年である。
われわれは新しがり屋である。これまで走って来たショートコースを一旦終了する。古いものを捨てる。捨てると新しくなる。捨てたと同時に新しくなっている。新しいコースが用意されている。このコースを走り出す。心機一転する。元気が涌いて来る。お正月というのは、いいこと尽くめなのである。
死というのもこれに似ているのかも知れない。<捨てるとそこで新しくなる>ものかもしれない。<捨てたと同時に新しくなっている>のかもしれない。
<なあんだ、そういうことだったのか>とわれわれはそこで思うのかも知れない。
なあんだ、死んだと思っていたのに死んでなんかいなかったじゃないか。そういう新発見に噎(むせ)び泣くするのかもしれない。
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いのちのそのものに断絶はなかったのである。一貫していたのである。
いのちを載せていた電車を乗り換え地点で乗り替えただけだった、ということに気がついたときのわれわれの驚きはいかばかりだろう。
小さい頃、お正月の朝には枕元に新しい下着が置いてあった。これに着替えて起きてきた。するとなんだか命の本体までが新しくなったような気持ちになった。
新年というのも、或いはわれわれが身につける新しい下着かもしれない。ちょっとでかいが。今日からはこのでかでかしい下着を身につけて生活をすることになる。
目出度さや冥土の旅の一里塚
お正月で数え年を数える。年を重ねる。重ね餅にしてこれを祝う。しかし、着実に冥土が近づいているということでもある。
すると途端にお正月は裏寂れた一里塚に変貌してしまう。
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「めでたしめでたし万々歳」は童話の締め括りの常套句である。この後ずっと目出度いことが続く。これを示唆予測して話が終わる。これでこどもたちが寝物語を信じてすやすや眠れることになる。
それがそうならなかったケースを思い浮かべてみると、ものごとはすべて感動が大きくなる。つまり、今年は何らかの事情があって新年は取り止めになったというケース、新年の扉にロックがかかっていて明けなかったケース、新年は明けたけれどもわたしにだけはそれがなかったというケース、などなど。それを思うと目出度さが増す。
「目出度い」「芽出たい」の漢字は因みに当て字である。目が飛び出すほどにめでたいという意味合いにとれないこともない。あるいは春になって木の芽草の芽が出るように希望の芽が出るという掛け合いかもしれない。
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めでたしめでたし万々歳のお正月のはずである。
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愛する我が子を亡くした一茶は「めでたさも中くらいなりおらが春」と歌った。
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それとも一年に一回くらいはその日を敢えて「めでたしめでたし万々歳」にして解放気分を味わったのだろうか。古人たちは。
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「めでたしめでたし万々歳の己」を確かめる機会というものはそう易々とは廻ってこない。ましてこれを味わうとなると。
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「めでたいからめでる」というのもあるが、「めでるからめでたい」というのも方法としてはある。
全国一斉にめでたしめでたしであるが、個々にわたるとそうあるのは難しい。万々歳をするのは難しい。めでたさに冷淡な人だっているだろう。何がそんなに目出度いのか疑問符を突きつけていると、めでたさの深入りはできない。
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わたしを除け者とせず、無条件にわたしにも新年が廻ってきた来た、そのことに対する「感動」が大いに深まれば、これを包まず表現できる。その感動的表現が、「明けましておめでとう」に凝縮される。
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「明けましておめでとう」なんて、それともただの挨拶言葉に過ぎないかも知れない。
全国一斉に、全世界同時に、めでたしめでたし万々歳のお正月である。
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さてしかし、これに疑問符をつけておられる向きもあるかもしれない。いろいろな事情があるだろうから。
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シリア内戦はお正月休戦が完全実施されたかどうか。韓国のパク・ウネ大統領は新年を祝うどころではないだろう。熊本地震の被災者はまだ仮住まいを余儀なくされておられるだろう。
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わたしは大統領ではない。平々凡々だから、その分は楽である。全国一斉に与(くみ)することが出来る。これは有り難いことだ。まあ、しかし、何か特別に目出度いことがわき起こって来たというわけでもない。熊本には近かったが被害は受けていない。
めでたしめでたし万々歳でいてもいい位置にいる。それがめでたいのかもしれない。
正月はめでたしめでたしである。めでたし万々歳である。
「めでたし」は「めでることいたし」が語源らしい。つまり「甚(いた)く愛でる」「愛でることが甚大である」ということだ。
「愛でる」は可愛がる、いとおしむ、愛する、ほめる、感歎する、賞味するということだから、「めでたし」は、それを推し量る度合いが強い、甚だしいというとだろう。
さて、しかし、いったいどれくらいの深さでその万々歳を祝うことができるか。これはまちまちだろう。
ちいともめでたくない。目出度くも何ともないというクールな方もおられるだろう。
お祝いをすることができる位置に立っていても、でもお祝いをする気持ちになれないという場合もあるだろう。感動が乗らないという場合もあるだろう。
素直に「おめでとう」を言う。そしておめでたい自分にする。おめでたいモードに切り替える。年を取るとこれもなかなかむずかしいのである。
新年が明けましておめでとうございます。本年もお付き合いのほどよろしくお願い申し上げます。今日から真新しい2017年になりました。こちらは快晴です。清々しい気分がします。晴れ渡ったいい一年になりそうです。