<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

ふふ ふふふ

2017年01月25日 10時48分10秒 | Weblog

このところ、ブログを短くして投稿している。その方が読みやすいだろうと思って。細切れにしている方が、読む時間も短くて済むだろう。

まだ北面の瓦屋根の霜が解けない。日はもう中天にまで上がっているというのに。洗濯物がベランダでぐるぐる回っている。のんびりしたもんだ。朝の寒さがしだいにやわらいで行く。いつものように僕は一人でいる。僕は行き場所がない。

僕は今日こそ空豆を畑に移植しなければならない。小さなポットに種を一粒ずつ蒔いたのが、もう10cmほどに伸びている。ポットの底穴からはみ出した毛根が延び延びだ。でも30株ほどもあるから、作業終了までには時間が掛かりそうだ。

まあいい。ほかにすることもないのだから。ふふ。ふふふ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

畏れ無きを施す菩薩たちまた菩薩たち その5

2017年01月25日 10時46分16秒 | Weblog

でも、この世に施無畏者がいることを伝えることは出来る。安心を与えられていることを伝えて行くことはできる。逢う人遭う人が畏れ無きを施している菩薩たち、また次に会う人も畏れ無きを施す菩薩たち。彼らの目に安らぎが灯っているので、その灯りでわたしもまた安らげる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

畏れ無きを施す菩薩たちまた菩薩たち その4

2017年01月25日 10時42分14秒 | Weblog

観音さまのことを施無畏者と呼ぶ。施無畏者は代受苦(だいじゅく)ができる。苦しんでいる人に代わって苦しみを受けられるからである。しかし、これはわたしにはできない。我が苦しみを引き受けるだけで精一杯だからである。施無畏者には、だから、なれそうもない。悲しいけれど。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

畏れ無きを施す菩薩たちまた菩薩たち その3

2017年01月25日 10時39分42秒 | Weblog

畏れ。恐れ。怖れ。懼れ。さまざまな不安、恐怖に人は出遭う。そしてそこを乗り越えて行く。乗り越えて来て乗り越えて来て最後に大きな山が聳えている。死の山である。ここをも乗り越えて行かねばならない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

畏れ無きを施す菩薩たちまた菩薩たち その2

2017年01月25日 10時37分35秒 | Weblog

願わくばわたしもまた、恐怖ではなく不安ではなく、恨みではなく呪いではなく、安心安堵を提供できる人でありたい。わたしも施無畏者でありたい。これが希望。実際はそうはできないだろうけれど。もしかしたら案に相違して多く不安を及ぼしただけかもしれないけど。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

畏れ無きを施す菩薩たち菩薩たち その1 

2017年01月25日 10時10分08秒 | Weblog

施無畏。せむい。畏れ無きを施す。つまり安心を与えてくれるということ。せむい。施無畏者。安心を施せる者とは菩薩(ぼさつ)のことである。どれだけ多く安心を与えられて来たことか。どれだけ多くの菩薩たちに出遭って来たことか。安心をもらって来たことか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする