<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

わたしは部分であってしかも全体を生きている その5

2017年01月14日 11時15分13秒 | Weblog

あれあれ、「その5」がないぞ。以下をそれに充てよう。

わたしはわたしのこころを讃えているのだ。霊としてのわたしをつぶさに見ようとしているのだ。

わたしはたしかに肉体を生きる者であるが、そこで行き止まっているのではない。その先の広がりが見いだせるのだ。

わたしは全体を生きる者でもある。ここを見落としてはならない。わたしのこころや霊(スピリット)は全体なのだ。繋がっているというよりはそれそのものなのだ。

肉体は有限を生きているがこころは無限を生きることが出来るはずである。そのためのこころのはずである。

こころや霊には老いがない。死がない。若々しい。ずっと青春をしている。そういうところがある。無限の可能性を秘めているゆえに、停滞、滞るということがない。考えて考えて考える。仏陀の処まで行く着こうとする。

 

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わたしは部分であって全体である その8 

2017年01月14日 11時10分20秒 | Weblog

15)

わたしが全体として生きているということを忘れてはならない。

16)

春の光が届いている。光はわたしの部屋の中にまで届いていて、とても明るい。光がわたしを「全体を生きる者」としているのだろう。

17)

それにふさわしい明るさ、明るさの広がりであれば、それをそう見て受け止め、わたしを全体を生きる者として立証し、讃え、祝福していよう。

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わたしは部分であってしかも全体である その7

2017年01月14日 11時08分19秒 | Weblog

13)

わたしは肉体を持つが肉体そのものではない。わたしは物質であるが物質のみの存在ではない。わたしは物質に宿っているが、これはあくまでここにいる間の変化体に過ぎない。

14)

わたしは部分であってしかも全体である。部分として生き、全体として生きている。

 

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わたしは部分であってしかも全体である その6

2017年01月14日 11時05分09秒 | Weblog

10)

最後には神に登場してもらおう。われわれはそれをそうせしめているものの存在を突き詰めているのだ。神はその呼び名である。短く簡潔な表現とした名である。

11)

無条件の愛としてもいい。愛、LOVEとしてもいい。唯単に「全体」としてもいい。仏教的に「真如界」としてもいい。

12)

わたしをわたしとしている力である。わたしをここに生かしている大いなる意思である。

 

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わたしは部分であってしかも全体である その4

2017年01月14日 11時02分56秒 | Weblog

8)

それに気づいているものがある。それがわたしのこころだ。わたしのスピリット(霊)だ。これも物質に拠ってはいない。

9)

これに気づけるのはわたしの力のせいではない。わたしがわたし以外のもの、全体性に繋がっているからだ。わたしのこころが全体の性質を帯びているからだ。

 

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わたしは部分であってしかも全体である その3

2017年01月14日 10時59分58秒 | Weblog

6)

全体は死なないのだ。死なない全体というものがあるのだ。

7)

物質が全体に関わって相応の活躍をしているが、それだけではないということだ。部分ということだ。だったら、物質界の変化という部分にのみ制約されることはあるまい。

 

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わたしは部分であってしかも全体である その2

2017年01月14日 10時56分56秒 | Weblog

2)

非物質化すれば、しかし、このルールは当て嵌まらなくなる。物質を材料としていなければいいのである。物質を材料としていないものもあるのだ、この世には。物質界と雖も全てが物質で構成されているわけでもない。物質だけによる運営ではすまされないことがあるからだ。物質の世界を動かしている始原、そうせしめている力、意思、法や法則がある。全体の秩序や調和がある。

3)

それは、だから、老いることがない。病むことがない。衰えることがない。死ぬことがない。灰になることもない。消えることもない。無量寿であって無量光でありつづけられる。ここには永遠性がある。繰り返し繰り返しの再創造もある。

4)

そういうもののしっかりした土台があって初めて、物質が物質界を創造できるのだ。物質界が安定して運営されていくのだ。

5)

それがあれば、だから、老いていい、病んでいい、衰えていい、刻々の変化を遂げていい、消滅をしていいということなのだ。部分は死ぬことがあっていいということだ。物質は全体からすると部分なのだ。構成をしているがそれが全体ではなく部分として活動をしているということなのだ。

 

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わたしは部分であって全体でもある その1

2017年01月14日 10時04分22秒 | Weblog

1)

肉体は老いる。病む。衰える。死ぬ。灰になる。消える。肉体は物質だからこの無常のルールに従うしかない。刻々の変化を刻々に遂げるしかない。われわれは物質界を生きているのである。この必然を食い止めることは出来ない。

 

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我が老いの小径あらばや

2017年01月14日 09時58分22秒 | Weblog

野にいでてみむとぞおもふ 春の日の野に我が老いの小径あらばや   薬王華蔵

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そこに春の桜の花が咲いているよう

2017年01月14日 09時42分04秒 | Weblog

そのトムアンドジェリーの手袋は親指と人差し指の先端が白くなっている。全体は赤茶色。パソコンを打つ指にしてあるのだろうか。ただのアクセントなのかも知れぬ。その銀行員さんに会えると思って楽しみにしてその支店に、何食わぬ顔でちょこちょこ通っていたのに、お目当ての彼女はそれから遠くの支店に転勤になってしまった。その後はもう行かなくなった。サンセット間近の老人がそういうことを思っているだけで賤しくさもしいが、思い起こしてみるだけでも、そこに春の桜の花が咲いているようであたたかい。といってこの手袋は、歳末に誰もが貰えるカレンダーみたいなもの。個人的な意味合いはまったくないのだけれど。

 

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