<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

いつのまにか同調をしてしまう

2017年08月27日 20時50分23秒 | Weblog

あきはぎのはなさくころは来て見ませいのちまたくばともにかざらむ     大愚良寛

平仮名書きの多い歌である。筆に書いてさらさらと贈られたのであろうか。もちろん贈った先は貞心尼である。平易な歌だ。秋に萩の花が咲く頃にはどうぞまた尋ねて来てください、まだその時まで老いのわたしが生き延びていられたら、あなたといっしょに飾って楽しみたいものです。ほんとは良寬様は秋と言わず明日も明後日もと言いたいところだったが、お慎みになられたようだ。逢いたい思いがいよいよ募って募っておられたはず。禅師は山の庵に一人で住んでおられる。しかし、その後しばらく貞心尼は音沙汰もなかった。彼女の方も慎み深くしておられたのであろう。そこでまた催促の歌を贈られた。

秋萩の花の盛りも過ぎにけり契りしこともまだ解けなくに

秋が来て萩の花が咲いた。今か今かと待っていたのだけれど、萩の盛りも過ぎてしまった。とうとうあなたは姿をお見せにはならなかった。あれほど頼んでおいたことだったのに。老いの身の禅師は、寒くなって病を得て床に伏せるようになってしまわれた。病のことは歌にしておられない。心配をかけるといけないからであろうか。

良寬様の恋の歌を観賞しているとこちらまで切なくなる。貞心尼を待っているような気持ちになる。いつのまにか同調をしてしまっているようだ。

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牡丹餅舟がついたぞ

2017年08月27日 20時34分57秒 | Weblog

ううう~ん、ううう~ん、ううう~ん。陣痛が起きてこないよう~。ことば赤ちゃんが生まれて来ないよう~。頭になんにも浮かんでこないよう~。分かった、十郎は社会と没交渉だから、受胎できないんだなあ。今日の日曜日も一日ずっと引き籠もっていた。玄関までも行っていない。無行動。唯一の行動は、昼間シャワーを浴びたくらいかな。

そうっかあ。昼間、牡丹餅を隣人から頂いたのでこれを2個食べたんだった。甘い小豆餡子がべったり。これは風の神さま綾部神社の門前の牡丹餅屋さんの牡丹餅。隣人はここへお参りに出掛けてこられたらしい。残りは冷凍保存してもらった。一日に2個ずつ食べるとしよう。夕方にまた別のご近所さんから同じ牡丹餅をもらった。どさり。牡丹餅の舟が着いた。

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ゴロンゴロンの丸太 不良品の

2017年08月26日 13時12分06秒 | Weblog

ゴロンゴロンゴロンゴロンしています。まるで丸太のようです。木材市場に不良品として投げ出された杉の木の丸太のようです。1m76cmの。杉の木の丸太にしては寸足らずですが。不良品というところが合致しています。なんにも使い前がありません。で、仕方なくゴロンゴロンゴロンゴロンしています。

あ。あれほど降っていた雨は止んでいます。

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怠け者が公然と怠けていていい雨の日 ウヒッヒー

2017年08月26日 08時40分45秒 | Weblog

雨だよ雨だよ。二回繰り返してゴロリ。つまり、この朝の自己強制労働命令は反故になったのである。こうして十郎はベランダのスレートにぶつかる雨音を聞いている。気温も下がっている。扇風機もエアコンも要らない。下着一枚で土曜日を寛いでいるわけだ。といっても秋野菜の植え付けまでの猶予期間はあと僅かだ。夏野菜を引き抜いて、畑を真っ新にして、施肥をして、耕して土を軟らかくしておかねばならない。これに変わりはない。今後の忙しさが昂じるだけかもしれない。怠け者十郎、それを予見する。どうする? それを思うと体は寛いでも、心が寛げない。

空を見上げて助けを求めるが、空は蛸が墨を吐いたようにしていて、何も語らない。晴耕雨読というではないか。今日は今日。残りの選択肢である読書に専念することにしよう。読みたい本は山とある。

今朝の味噌汁は小松菜の味噌汁だった。豆腐がそこにちぎって落としてあった。我が家の野菜瓜を原料にしたおいしい奈良漬けと雪花菜を白ご飯に載せて食べた。

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何処へ行こうがそこが最高最上の居場所

2017年08月25日 13時35分02秒 | Weblog

自性(じしょう)霊妙、主人公惺惺(せいせい)として覚めたれば、随所に主となって、立処皆真なり。自ら自性を晦(くら)まして、他をして迷惑せしめんや。     臨済宗妙心寺派経典「宗門安心章」より

わたしは、生まれて来るときにその耳に次のように囁かれた。それを思い出す。

1,汝は尊い仏界に生まれたので尊い仏の子である。

2、だから汝の本性は仏性そのものであり、もっとも霊妙である。

3,汝のために仏界が用意されたので汝こそがこの世界の主人公である。

4,そこを自覚していれば汝は何処に行ってもまっすぐに自らの足で立っていることが出来る。

5,立っているところが真実界だから、汝の足元に太陽の光が届き汝の頭上に銀河が煌めくであろう。

6,自性の仏心を晦まして、卑屈になるな。怯えるな。迷妄に落ちるな。胸を張れ。その不動の姿が他者の手本となる。

耳はその時の言葉を復唱している。

「汝が生まれ出るこの世界は、汝がいかようにも生きて活動できるようにしてある」「ここに生きているということは即ち汝がこの世界の主人公の資格を有しているということである」「頂いた霊妙の自性を曲げず折り畳まず外に現して素直に発揮せよ」「迷妄の酒を喰らうな」「迷妄に振り回されることがなければ、何処へ行こうがそこが汝に最も相応しい最上の居場所である」「霊妙の自性に蓋をしておくな」

「随所に主と為る」とはどういうことか。ふっと思ったことだが、それは「仏陀と会って話が出来るのは汝自らである」ということかもしれない。

宗門安心章を読んで、十郎は以上のような安心を得た。この章は「飲酒することなかれ。愚痴の酒を飲むことなかれ」から始まっている。

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気まぐれなお天気だ

2017年08月25日 11時39分25秒 | Weblog

夜明けに雨が降った。雨の音がした。それが止んだ。日射しが注いだ。10時前後に亦雨になった。そして止んだ。正午、からりと晴れている。照りつけている。気まぐれなお天気だ。風もやや強く吹いていて、夕顔の大きな葉っぱが煽られて時折白い裏葉を見せている。十郎は金曜ごとに新聞投稿する短歌の作品をどうにかこうにか書き上げた。四苦八苦して。あ、そうそう、今日の新聞発表では落選だった。やっぱりがっかりした。いい作品が書けていなかったということを認めて、すぐに気持ちを入れ替えた。文学賞に応募する予定の随筆がまだ書けていない。8月末で締め切りだから、残り幾日もない。原稿用紙5枚。荷が重い。結局、書けないかも知れない。お昼からクリニックへ行く。検査結果を聞きに。それから修理してもらっているマイカーを受け取りに行く予定。夕方、少し涼しくなったなら、昨日に続いて野良仕事をしてもいい。風も吹いていないで、蒸し蒸し暑かったなら、しない。無理はしない。今日の気紛れお天気とあまり変わらないようだ。

 

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画竜点睛したら、龍は絵の中から飛び出してしまう

2017年08月25日 05時51分34秒 | Weblog

でも、生きているって、どういうことなんだろう? ふっと考えてしまう。おれはほんとうに生きているのかなと思うときがある。頬を抓って確かめたくなるときがある。こんなうすっぺらの生き方をだらだら続けていてもいいのかなと懐疑するときもある。でもそれでいいから、明日が今日になったはずとも思う。

でも、期間が限定されているのは、どうしてなんだろう? それがいいからだよね、きっと。そこにぐっと圧縮されている。点火爆発が起きやすくしてある。忍耐力が乏しいものにも忍耐可能になっている。おいしく甘く濃厚になっている。それを口にすれば栄養豊富で、すぐにも元気になれる仕組みになっている。なるほどなるほど。

それを、十郎はうすっぺらに生きている。ぼんやりぼんやり生きている。こんなふうだから、長々と生きていてもなかなか積み上がらない。一丁「上がり」にならない。仕立て上がらない。画竜点睛したら、龍は、この世という絵の中から飛び出してしまうけど、いつかそうなるはず。

死者たちは、(何かの拍子に)画竜点睛をしたために絵の中から、仮の世から、飛び出せたのだろう。ロケットエンジンが火を噴いて真実界に飛び込んでいったのだろう。

今此処にいて、生きているって、どういうことなんだろう? 一つの完成に向かっている、というふうにも思える。この世の暫定到達点、死に辿り着こうとしている、というふうにも思える。

だったら、死ぬってことが生きたということの証明なのかなあ。

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朝早くに錯覚に陥る

2017年08月25日 05時39分12秒 | Weblog

もうすぐ6時。夜が明ける。目の前が明るくなる。ああ、よかった。それまで目を閉じていたけど、もう目を開けてもいい。ものがものとして見える。ああ、よかった。ものたちが、わたしを見てよ見てよと言い募る。見る。それぞれの元気な姿を見て、元気をもらう。ああ、よかったと思う。この世をよかったよかったと思って見渡すと、十郎は小さなアイヌの神さまになったような錯覚に陥る。

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今日は怠け者が2時間働いた

2017年08月24日 22時50分47秒 | Weblog

怠け者が、今日はそこを一歩抜け出てみた。夕方からだったけど、2時間ばかり庭の小径の草取りをした。汗びっしょりになった。頭から、ペットボトルの水を浴びせかけた。着ている服が濡れてしまった。そのままでいても湯気が立った。藪になっていた庭の小径が一部通れるようになった。抜いた草を何度も何度も捨てに通った。よろよろよろけながら。でもまあ、働いたという充足感の熱であたたまれた。暗くなってもう何も見えなくなった。手足を洗って上がって来た。折檻でゴシゴシ擦って、シャワーを浴びた。夕食にねぎらいの缶ビールを飲んだ。

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死は己に何かを求めてくるのか ラスト

2017年08月24日 22時40分37秒 | Weblog

臨終の時、死に際の時に、予定死者はにっこりする。にっこり微笑む。頬が薔薇色に変わる。あれは、もしかしたら、全肯定をしたのではないか。「ああ、よかった」「すべてが予定通り、計算通りだった」「果たすべきはみな果たし終えた」「悔いはない」「こころは感謝ばかりだ」という結論に支配されて、にっこりしているのかもしれない。

死が己に求めてくることはないのかも知れない。求めて来たのは己の生のみだったかもしれない。死は最高最善の安寧と慰撫と、最上最良のねぎらい・いたわりを投げて寄こすだけかもしれない。

10

これはみな十郎の邪推である。ここに書いていることは素手で雲を掴むようなことである。

死は人知の理解を超えていることなのだから。

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