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小笠原・硫黄島ニュース

2009-02-05 23:24:13 | 日記・エッセイ・コラム

「日本酒2合まで」規則破り“痛飲”…硫黄島の自衛官処分

2月5日7時33分配信 読売新聞


 海上自衛隊第4航空群(神奈川県綾瀬市)は4日、傘下の硫黄島航空基地(東京都)で昨年10月に行われた「着任者歓迎会」で、規則で定めた量を超えて飲酒したとして、隊員4人を減給などの懲戒処分にした。

 海自の基地内は自室も含め原則禁酒だが、基地内の民間委託の飲食店では、好きなだけ飲める。硫黄島基地には飲食店がないため、隊舎内の娯楽室での飲酒を認めた上で、「日本酒2合まで」と量を制限している。

 発表によると、歓迎会は昨年10月16日、基地の娯楽室で開かれ、8人が参加。そのうち、46歳の1等海曹は、規則を大幅に上回る缶ビール2本と焼酎12杯を飲み、閉会後も自室で焼酎5杯を飲んだとして、減給15分の1(1か月)になった。缶ビール1本と焼酎10杯を飲んだ2等海曹ら40~46歳の3人は戒告処分とした。当時、基地隊司令だった1等海佐(51)ら上司4人も監督責任を問われ、注意などの処分を受けた。

 硫黄島基地で飲酒量を制限している理由について、防衛省海上幕僚監部は「はっきりした理由は分からないが、昔の基地隊司令が、娯楽室での飲酒を認めた際、『翌日の勤務に支障が出ないように』と量を制限したのでは」としている。

最終更新:2月5日7時33分

読売新聞
 
 読売新聞のオンラインニュースに載っていました。

 硫黄島は小笠原村の最果て地、ここでも天下の東京都内。
 昭和15(1940)年に村制が敷かれ、父島は今の中心地を形成しているところは「大村」、南部は「扇村袋沢村」、母島の中心地は「沖村」、北部の北港あたりに「北村」、硫黄島も「硫黄島村」。
 終戦後、小笠原諸島はアメリカの占領下に置かれ、昭和43(1968)年6月26日から日本に復帰、晴れて「小笠原村」設置。

 硫黄島村は戦前までは1000人の島民が一般住民として暮らしていたのですが・・・・

 太平洋戦争開戦後、アメリカ軍が硫黄島を米軍の本土を攻める航空拠点にしようとしたため、内地から日本兵約2万人を送り込み、日米両方あわせて2万6千人の方が亡くなられた激戦の地でした。
 昭和43年、硫黄島が「小笠原村」になっても一般島民の帰島は許されず、防衛庁管轄の自衛官がおよそ400名暮らしているそうです。
 硫黄島に行ける人は、戦没者遺族の慰霊や旧島民の里帰り、小笠原中学校生徒の社会見学に限られ、「おがさわら丸」が父島の二見港で3日停泊する時間を利用し、年に1回(6月)は臨時便の父島-硫黄島間を就航しているそうです。
 
 一般人の上陸が非常に難しい場所なので、このニュースで民間委託の「飲食店」もあったのか、ほかに売店もあるのかな?と思わせるような記事ですね・・・。

Iwoto1_2  グーグルマップの硫黄島地図。
 この航空写真を拡大し、空から眺めるだけで「物資陸揚場」に戦時中の沈船数隻が海面上にさらし、波に洗われているのが見えます。

 この沈船は島を占領した米軍が波止場建設のため、海底に沈めたはずだが、昔からの火山活動で活発な隆起沈降を繰り返しているそうです。
 「おがさわら丸」が寄港できるような桟橋を作るにしても、このような現象なので「港」がないということでした。

0902060003  硫黄島をもっと知りたいのにお勧めできる書籍は、
 「写真で見る日米激戦の地 鎮魂の摺鉢山 硫黄島」
  著者 秋本昌治 
  2006年10月刊 1700円 関東図書株式会社

 2006年8月、著者が硫黄島に降り立ち、現在の風景を写真集にしたもの。

0902060004  「硫黄島の戦い」
  映画「硫黄島からの手紙」のロケ地は本物の硫黄島で撮影したときのエピソードや、戦時中の資料写真や解説が盛りだくさんです。
  2007年1月刊 1800円 新人物往来社


0902060009_2 左:「好きになっちゃった小笠原」 双葉社 2000年5月刊
 右:「好きです!小笠原」 双葉社 2006年8月刊

 小笠原が大好きな方の必読書。

 今度は「好きになっちゃった青ヶ島」や「好きです!青ヶ島」の本があればいいな・・・。
 青ヶ島好きが高じて本当に移住してからでないとなかなか書けないみたいですね。
コメント
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