「尾張七宝」
Description / 特徴・産地
尾張七宝とは?
尾張七宝(おわりしっぽう)は、愛知県あま市および名古屋市一帯で作られている焼き物です。風景や花鳥風月などの華やかな図柄をあしらっており、仏典に言う七つの宝を散りばめられているように美しいという意味から「七宝」という名前が付きました。
尾張七宝は、銅や銀の金属素地の表面に、色付きのガラス質の釉薬(ゆうやく)を施すことが特徴です。尾張七宝には様々な技法があります。
「有線七宝(ゆうせんしっぽう)」は、近代の七宝の基本技法で、銅や銀の素地に描いた下絵に沿って金属線を立てた輪郭を作ります。その後、釉薬をさして焼き上げて研磨したものです。「無線七宝(むせんしっぽう)」は、「有線七宝」とは異なり、焼成する前に金属線を取り除いたり、初めから金属線を使用しません。そのため、ぼかしの表現が可能です。「盛上七宝(もりあげしっぽう)」は、研磨の工程で、盛り上げる部分に釉薬を盛って焼き上げるため、立体効果があります。「省胎七宝(しょうたいしっぽう)」は、完成品がガラス製品のように見える焼き物です。銅の素地に銀線を立てて透明釉をさして焼き上げて研磨した後、酸で腐食させて銅の素地を取り除く技法を用います。
七宝にはさまざまな技法があり、それらを組み合わせて新しい技術が生まれています。七宝独特のガラスのきらめく様や、鮮やかな色味が人々を魅了しています。
History / 歴史
七宝焼は、古代エジプトで始まり、欧州・中国から日本に伝わったとされています。7世紀頃の古墳から最古の七宝焼が出土しており、城や寺院の建具として使用されてきました。
1830~1844年(天保元年~天保15年)に、オランダから七宝焼の皿が輸入されます。その皿を見て尾張藩士の梶常吉が七宝の製法を発見し、改良を施しました。梶常吉が確立した製法は、村の農家の二男三男による産業として根付くことになります。急速に七宝の製造が広まると共に、愛知県尾張地方で生産される七宝は尾張七宝と呼ばれるようになりました。尾張七宝は作者が名前を記さないため、芸術作品というよりも村の産業であったことがわかります。
1867年(慶応3年)にはパリ万博に出品して受賞し、世界に知られるようになりました。近代に入ると戦争が相次ぐ状態となったことから、尾張七宝は存続の危機に陥ります。第二次世界大戦中の七・七禁令、奢侈品等製造販売制限規則により贅沢品が禁じられ、製造中止を余儀なくされました。
1943年(昭和18年)に着任した官選知事の吉野信次が、地域の産業として尾張七宝を蘇らせました。
*https://kogeijapan.com/locale/ja_JP/owarishippo/ より
「七つの宝物」が放つ絢爛・高貴な輝き 尾張七宝(おわりしっぽう)
古代エジプトに起源をもつとされる七宝は、仏典にある七つの宝物(金、銀、瑠璃、しゃこ、瑪瑙、真珠、まいえ)に美しさをたとえたのがその名の由来という。ガラス質の釉薬が、あでやかな色彩に透明感ある輝きを与える。
名店に生き続ける技と伝統
名古屋の老舗「安藤七寶店」を訪ねてみた。現代的でファッショナブルなアクセサリーや装飾小物など、洗練されたデザインの美しい商品が目を楽しませてくれる。さらに店内奥へと足を進めると、やや趣が変わり、あでやかな色と輝きを放つ伝統の品が高貴な香りを漂わせ並んでいた。花鳥を中心とするデザインと明るい色遣いは、日本的というよりは、より広くオリエントの歴史を感じさせる。製品工場で、実際の作業工程をのぞいてみた。
銀線一本が仕上がりの違いを生む
尾張七宝は制作方法の違いにより、いくつかの種類に分けられる。代表的な「有線七宝」は金属素地に描かれた下絵の輪郭にそって銀線などを植えつけたもの。異なる色の釉薬(ゆうやく)が銀線によって分けられるので、色彩が混合せず鮮明になる。分業体制で作業が進められる工場で、線つけを主に担当しているのは森三喜男さん。窯業学校を出て20歳のころからこの店で七宝作りにたずさわっている。「最初に見たときは、陶器のきれいなものかと思ったね。」一見、陶磁器に見える七宝だが、金属素地にガラス質の釉薬を焼き付けるところは、琺瑯(ほうろう)をイメージしたほうが近い。実際、七宝を実用化させたものが琺瑯なのだそうだ。七宝の精彩なところが、森さんにとっては陶器にない魅力に思えたという。銀線は幅や厚みの異なるものを図案により使い分ける。仕上がりをイメージし、ひとつの花瓶に何種類もの銀線を使う。接着剤の役割を果たすのは紫蘭の根を乾燥させ、粉末にして水に溶かした上澄み液だ。化学接着剤を使うと、焼成の際にガスが発生するが、蘭は植物なので完全燃焼して害にならない。そんなところにも自然のものの良さが表れる。
価値あるものへのこだわり
森さんは個人的にも年2度の展覧会をめざして作品作りに励む。職場では分業制が基本だが、自分の作品は、素地作りからほぼすべての工程を1人で行う。ふだんあまり手がけない部分では苦労が多い。1年に仕上がる作品は2つか3つ。30年以上の経験をもっていても、何か新しいことをやろうと思えば「まだわからんことばっかり」らしい。伝統的な七宝を作り続けてきたこれまでの仕事を振り返って考えるのは「高級なもの、きちんとしたものを作ること」への喜びだという。「思い出として印象深く残っているのは、七宝で祭り用の山車の四本柱を作った大仕事。仲間とともに試行錯誤を重ね、平成7年から3年がかりで完成させました。」不透明釉を使い複雑な絵柄を施したその丸い柱は、なんとも味わい深い独特な色合いの、まさに「技が織り成す妙」である。
七宝に魅せられて57年―引退後のあらたな楽しみ
森さんとともにこの四本柱に取り組んだ職人の1人、大ベテランの桜井鶴也さんは、2001年3月、77歳で退職することになった。終戦の年に20歳で勤め始めて57年。安藤七寶店が皇室に納めている菊の御紋章の入った品も40年ほど手がけてきた。2センチほどの御紋とはいえ、線つけや施釉がもっとも難しいとされる仕事である。後を引き継いでくれる腕のある職人がなかなかいないので、すっかり引退というわけにもいかないらしい。「自分のイメージどおりに出てくるところが面白いねえ」と語る桜井さん。「七宝の釉薬は泡が細かいから、研磨で細かい穴があきやすい。だから低く塗るのを何度も繰り返して高さを出していく」。釉薬を塗り重ねることでできる厚みから伝わる温かみが、七宝の魅力のひとつだという。眼鏡の奥の目が優しい。退職後も展覧会の審査員などで引っ張りだこのようだが、その合間をぬって、これからもじっくりと新しい作品づくりに取り組んでいくことだろう。
職人プロフィール
森三喜男 (もりみきお)
1945年生まれ。 「七宝は奥が深い。まだまだやり足りないね」。個人的にも作品作りに励む。 1924年生まれ。 2001年春、57年間勤めた安藤七寶店を退職。 今後も七宝に関わっていく。 こぼれ話 進駐軍の帰国土産としての一大ブーム 輸出産業として盛んになった七宝は、戦時中はその主要材料である銅、酸化鉛、コバルト、マンガンなどが軍需品であったために、生産自体が難しくなりました。しかし、昭和20年の終戦後は状況が一変し、進駐軍が帰国する際の土産品としての人気が高まり、七宝町の生産者も数年間は大忙しの時期が続いたといいます。日本の土産といえばたいていは木、竹、紙からできているなかで、素地が金属の七宝焼は丈夫で落としても割れることがなく、長旅には最適だったのでしょう。土、日曜日ともなると、ジープが何台も連なって買いつけに来ていたといわれます。 国外から里帰りした逸品もあります。七宝町産業開館の展示室でひときわ目を引くのは高さ1.52メートルの「間取り花鳥紋大花瓶」。輸出がもっとも盛んだった明治30年代のもので、七宝焼としては最大級のものです。
「七宝の町」で守られる精緻な技術
尾張七宝の始まりは、オランダ船がもたらした一枚の皿だった。尾張藩士梶常吉が破砕分析してその構造を知り、「泥七宝」と呼ばれる手法を開発。その後ガラス質の釉薬が研究され、今日まで続く精巧華麗な七宝焼が誕生した。
海外向け美術品としての七宝人気
もともと輸出産業として発達した尾張七宝は、明治時代にはパリ万博、日英博覧会にも出品されて国外でその名を広く知られるようになった。こうした大舞台の際には、完成した品を持っていくほか、職人を数名現地に派遣して、半年間ぐらい制作にあたらせ実演した。代表的な有線七宝の技術は、明治末から大正初めごろにほぼ完成され、そのほかの種類もこの頃にほぼ出揃い、その精緻な技術が今日に至るまで受け継がれている。七宝焼が盛んだったこの地は明治39年に七宝村(現七宝町)の名がつけられた。
施釉と焼成を繰り返す七宝制作。集中力と根気が必要だ。
ベテラン職人の林貞加津さんをたずねた。4代目の林さんは大正8年生まれ。町で一番古い窯元であり、その木造家屋が尾張七宝とともに歩んできた歴史を感じさせる。現在、焼成には電気炉を取り入れているが、木炭窯を使っていたころは燃えないように土を塗っていたという窯場の天井を見上げると、はがれた土と黒いすすの跡が当時の名残をとどめていた。子どものときから見様見まねで七宝制作の手伝いをしてきた林さんは、昭和20年の終戦を機に本格的に職人生活に入った。
必要な道具は自分で作る
七宝は分業で作られることが多く、窯元である林さんの場合は施釉と焼成がおもな仕事になる。有線七宝なら銀線がつけられた状態で林さんのもとに届く。優れた職人は使う道具もほとんど手作りだ。細かい図柄に釉薬を施すときには、「塗る」というよりは「刺し込む」状態に近い。筆ではなく針を使う。筆先の毛の部分を抜いて代わりに針を差し込んだものを自分で工夫して作っているが、それも木綿針、絹針と使い分けている。少し長めに伸ばした指の爪さえ道具の一部となる。 「失敗をせんとなあ」。技術は肌で覚えなければならない。大きな失敗をすることで次から気をつけるようになるということだ。根気よくコツを習得していく。だが、自分の技術とは別の、思いがけない原因でトラブルが引き起こされることもある。釉薬の溶解加工が外注になってからのことだが、下塗りに使う釉薬たったひとつの加工が悪かったために、研磨の段階で小さな穴がたくさんあいた。「95パーセントまで仕上げて初めて不良品だとわかるんだからねえ」。大きな損害が出た。ひとつの品を完成させて「これはいい具合にいけたなあ」と思えるときが職人としての喜びだ。
まずは知ってもらうこと。伝統と進化
「七宝は落としても割れない。いつまでも色が変わらず光っている」。そんな七宝の魅力を多くの人に知ってもらいたいと林さんは話す。カルチャーセンターで七宝焼が教えられるなど、手軽なアクセサリーとしての七宝は人気があるが、「これが本物ですよ」と伝統的な尾張七宝の素晴らしさを伝えていかなければならない。現在、組合理事長をつとめる服部良吉さんは、「たとえば陶器の産地の学校で、給食用の容器が樹脂製ではだめですよね」と、教育の場で文化を伝えていくことの必要性を訴えている。 町では毎年展覧会が開かれるが、最近の出展作品をみると、かなり大胆で新しい感覚の図柄やデザインのものが増えているように思われる。生活様式の変化で花瓶を置く床の間がなくなれば、別の形のものへの転換も必要になってくる。現代的なアレンジを加えつつも、受け継がれてきた精緻な技術はいつまでも守り続けてほしい。
職人プロフィール
林貞加津 (はやしさだかづ)
1919年生まれ。 息子さんと2人で古くからの窯元を守る。
*https://kougeihin.jp/craft/1410/ より
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