富田林百景+ 「とんだばやし」とその周辺の魅力を発信!「ええとこ富田林」

大阪の東南部に位置する人口10万ちょっとのごく普通の町、富田林。その魅力を、市民の手で発見していきます。

〈リバイバル・アーカイブス〉『南河汽車の旅』をご紹介します。

2015年03月26日 | 鉄道・バス

〈リバイバル・アーカイブス〉2021.12.6.~12.20

原本:2015年3月26日

 

 当時のものとおもわれる機関車

 

 『鉄道唱歌 第一集 東海道篇』が、明治33年(1900年)5月に発表され、遅れること数ヶ月、富田林もしくはその近隣の人の手によって創られたご当地版鉄道唱歌『南河(なんか)汽車の旅』。

新たに敷設された河南鉄道をはじめとする3つの鉄道沿線を環状に巡る旅。近隣の古跡・名所を歌い込んだご当地版鉄道唱歌には、鉄道が敷かれ、蒸気機関車が走りだしたその地域の住民の喜びや、思い入れがあったと思われます。

その唱歌における「旅」の経路は、富田林駅より河南鉄道で柏原駅に到着。同駅で関西鉄道(現JR西日本、難波駅)に至ります。

そして、湊町駅からは徒歩で高野鉄道、道頓堀駅(現南海電鉄、汐見橋駅)まで行き、道頓堀駅からは、高野鉄道に乗車し、河内長野駅に至ります。

なお、現近鉄電車の河内長野~富田林間はこの当時まだ開通していません。最後の行程の6.8kmは、何と!歩いて帰って来なければならないのです。

『南河汽車の旅』ならず、『何と!汽車の旅』ですね!

めぐる車窓や近隣の古跡・名所を行程に沿って、47番まで歌詞と略記で紹介されています。

 

 『南河汽車の旅』の案内図部分

 明治33年(1900)当時、地図の通りの路線しか営業されていませんでした。

富田林~河内長野間は未開通でした。遅れること、2年半後の明治35年(1902)12月に富田林~長野間が全通します。

 

 『南河汽車の旅』 楽譜

曲の内容

①作曲的特徴は「ヨナ抜き・ピョンコ節」=1900年ころのはやり

☆ヨナ抜き:西洋音階に当てるとハ長調の場合4つ目「ファ」と七つ目「シ」が抜けた音階。ひい・ふう・みい・よ・いつ・む・なな・やを順番に当てると「ヨ」と「ナナ」にあたるので、ヨナ抜きといいます。曲の感じは、なつかしい日本的な感じがします。『しゃぼん玉』・『夕焼け小焼け』・『兎のダンス』・『鞠と殿様』など

☆ピョンコ節:付点8分音符+16分音符(タッカ・タッカのリズム)の繰り返し。軽快・コミカルな感じがします。 『兎と亀』・『鉄道唱歌』・『兎のダンス』・ 『箱根の山』・『宮さん宮さん(トコトンヤレ節)』など

②作歌的特徴は文語調

 この作品の作歌(作詞)は、文語調で書かれています。またこの頃、言文一致の作品もつくられ、『金太郎』・『兎と亀』・『うらしまたろう』などがそれに当たります。

 

 

 『南河汽車の旅』 1番の歌詞。 47番まで続きます。

作歌(作詞者)は、内田愛蔵さんと西尾幾次さん。内田愛蔵さんについては、著作者でもあり、川西村甲田がその住所となっています。明治41年、河南高校の前身、富田林高等小学校附設 裁縫学校校長であったことが、「河南高等学校90年史(河南高校、2002年)」でわかります。同氏は明治41年から大正8年の11年間ここに在籍しておられました。

西尾幾次さんも名字から地元の方であると考えられます。

また、作曲者の端山文仲さんについても、関連資料を探すことができませんでしたが、端山姓からして、この方も富田林もしくはその周辺地域に居られた方ではないかと思われます。

 

 富田林駅での種苗の積み出し作業風景

河内一寸空豆のようです。昭和期には線路脇の種子倉庫で二硫化炭素で燻蒸してマメゾウムシやダニ類を殺虫したあと、関東方面に出荷したと聞いています。

 

 

 

 毎年、富田林市のオカリナクラブと女声合唱、男声合唱団で『南河汽車の旅』の抜粋版が披露されています。

 

 2011.11.4. 富田林西口駅~川西駅間

 

 

 

 

 2012.10.5.古市駅~喜志駅間

 

 2014.2.14. 富田林西口駅

 

 この書物の中で、時刻表と運賃が付記されていました。現在、書物が発刊された明治33年当時に比べ、4割以上スピードアップされています。 また、運賃においては、明治30年頃の1円が現在の貨幣価値にすると、大体1.5万円ほどいうデータから、当時の運賃を現在の貨幣価値に換算すると、富田林~柏原間の当時の運賃は1500円相当となり、かなり高い乗り物であったことがわかります。

 

 2015.3.25. 富田林駅構内 復刻版ラビットカー

昭和32年、颯爽と現れたラビットカー。形と色彩に仰天しました。うさぎが跳ねた「ラビットマーク」は、斬新で聞くところによれば、岡本太郎さんの考案とか...でも、形だけでなく、その性能も抜群!

4枚ドア20メートル車体はその後の近鉄通勤車の基本となっています。この車両、何と各駅停車用につくられた通勤車両なんです。高加減速で準急・急行・特急車両のダイヤ間を逃げ切る形で飛び跳ねる高性能!キュッと加速、キュッと停まるシャープさはすごかったです。

なんとなく大阪線や奈良線に比べ影の薄い南大阪線・長野線ですが、こんな電車が始めて導入された時代もあります。

 

 明治41年(1908)の地図 まだ道明寺駅~大阪阿部野橋間は開通していませんね。

明治31年(1898)4月開通という近鉄電車の路線で一番古い歴史をもつ南大阪線・長野線。まさに富田林の文明開化はここに始まったといっても過言ではないと思います。

 

関連記事:『公徳唱歌』をご紹介します。2014.3.5.

2015.3月26日 ( HN:アブラコウモリH )

☆この書物の資料の閲覧については富田林市富田林町在住の岡田 昌治氏に、また全体的な歴史については富田林市の地域史研究家の玉城 幸男氏にご教示をを受けました。また、資料作成にあたり、中央公民館 吉冨 敏朗氏にお世話になりました。この場をお借りして、お礼申し上げます。

 

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