〈リバイバル・アーカイブス〉2021.8.16.~8.30.
原本:2015年5月29日
*紹介文は、青い文字をお読みください。緑の文字は写真の説明文になります。
富田林市喜志地区の肥沃な田んぼ 掛け稲 後方は二上山
江戸時代に大阪市住之江区の多くの土地を干拓し、新田開発した加賀屋甚兵衛とその子孫たち。そこまでに至る道のりは決して平坦ではありませんでした。
【粟ケ池(あわがいけ)】富田林市粟ケ池町
古代成立の溜池と考えられます。水源は、7.3km上流の石川の水を荒前井堰から、途中4.8km上流で同じく石川より深溝(ふこうど)井堰からの井路と合流し、上流の各村々を潤しながら、引いてきています。記紀の記載から、仁徳・崇神天皇にその起源を当てる説がありますが、考古学資料(中野北遺跡発掘成果ほか)からは奈良時代の可能性と考えられます。石川左岸では、溜池灌漑も含め、江戸後期、荒前2500石、深溝3000石、粟ケ池(尺度まで)3000石、ざっと8500石の収量と考えられます。
この池は、櫻井をはじめ惣村(そうそん)喜志五郷(櫻井・川面(かわづら)・大深(おうけ)・宮・平(ひら)― 江戸期)を潤す命の水。肥沃な田んぼを潤します。条里地割が施工され、奈良時代から耕作されていました。すでに1100年以上、灌漑によりお米が作られているわけです。
流入水路は人工水路 深溝(ふこうど)井路一本なのに、出ていく水路(樋門)は各村7つもあります。しかも自然流入の河川は一本もありません。
大和川付け替え(1704)前は、王水川→平野川→第2寝屋川→淀川(大川)を流れ、安治川を経て、天保山より大阪湾に流れていました。
加賀屋甚兵衛は延宝八年(1680)河内国 石川郡 喜志村櫻井(さくらい)に、 山本善右衛門の次男として生まれました。南河内地方の粘り強い気質で、高潮や大洪水との苦闘を繰り返しながら、海へ海へと田んぼを拡げていった甚兵衛。
喜志付近の石川の流れ
喜志の川面(かわづら) 小ざいしょなれど 浦にどんどと 舟がつく
大和川付け替え前は石川を行き来する剣先船(けんさきふね)は26艘でありました。(元禄五年(1692)河内国絵図)この船は石川を経由して、京橋まで運航していました。
そして、付け替え(1704)後は、喜志の浜より難波橋まで、剣先船は七里半(30kmあまり)を運航していました。
「御廻米津出シ之儀、当村川岸迄大坂船通船仕候、当村之儀者村居五カ所ニ分リ居申し候ニ付、道法リ不同ニ御座候、凡平均八町此給費平均六分、喜志村浜ゟ大坂難波橋迄川路七里半...」(喜志村様子明細帳 明和六年(1769))
喜志を過ぎると、川の傾斜がすこし急になるのと、井堰数が増えます。よって、喜志村川面が最終の船着き場で、「大坂剣先船之儀、石川筋ハ喜志村領着仕候、是ゟ川上江ハ登不申候...」と同明細帳にあります。しかし、一時的には、富田林まで4艘の剣先船が上っていたという別の資料もあります。
剣先船は20石積で、3トンの荷物を積むことができました。船頭は前・後ろの2人乗り。基本的に物資運搬用。
大和川の堤防から朝日を望めば、金剛・葛城・二上の山並み。そして、この川が、ふるさと 櫻井につながっているという思い入れ。甚兵衛は石川の清き流れと故郷へのあこがれを忘れませんでした。
【加賀屋新田会所跡(加賀屋緑地)】 住之江区南加賀屋四丁目8
宝暦四年(1754)に初代加賀屋甚兵衛が新田開発の管理事務所と居宅を兼ねて設けました。総面積4822㎡の及ぶ邸内には、鳳鳴亭という数寄屋風の茶室や、小堀遠州流の築山林泉回遊式庭園があり、四季の移ろいが楽しめます。
かつては会所から井路を通じて十三間堀川へ、更に大和川・石川方面、また大坂の中心部まで船で行けたということです。
【 甚兵衛ものがたり 】
近世のすばらしい「 プロジェクトX 」、甚兵衛のその夢のあとさき...富田林市喜志の桜井と大阪市住之江区の加賀屋の地...ふたつのふるさとは、今も井路と川でつながっています。
【註】・ものがたりの部分は「黒字」をお読みください。
・「緑字」は写真の解説になります。
富田林市桜井町一丁目 明尊寺
帰命山と号す。文永十年(1273)了智坊の開創と伝えられる。真宗寺院としては中世(文明四年 1472)から次号を有した古い寺院で、蓮如の南河内地方の布教の伸長をたどることができます。 蓮如の裏書のある阿弥陀如来絵像の「方便法身尊像」があります。きっと甚兵衛も幼少の頃、両親に連れられお参りに来たり、境内で遊んでいたことでしょう。
加賀屋甚兵衛(後の櫻井甚兵衛)は延宝八年(1680)、河内国石川郡 喜志村櫻井に、山本善右衛門の次男として生まれました。元禄3年(1690)、11歳の時、大坂 淡路町一丁目 両替商 加賀屋嘉右衛門へ奉公しました。
明尊寺本堂の象? 象なのか獏(ばく)なのか?
嘉右衛門が元禄16年(1703)に亡くなり、幼少6歳の実子虎之介が家督を相続します。甚兵衛は24歳、中堅の手代にあたり、幼少の主人を助け、業に励んでいました。
美具久留御魂(みぐくるみたま、略して喜志の宮)神社の狛犬さんのひとりごと
「すんません。もう200年以上もここでお参りする方々をお迎えしてきた狛犬です。朝、日の出前から、そして暗くなっても、お家(うち)の心配事を相談に来てくれはる御主人や、娘さんの合格祈願に来てくれはる若い奥さんの祈る姿を見てきました。いつの時代でも、祈る気持ちは皆同じ...神さんにお参りする方々の心があるから、私らもここでこうして元気にお迎えしてますねん...これからも、平和な一日に感謝して、ありがとうの気持ちを大切にしましょ...」
その甲斐あって、正徳四年(1714)、甚兵衛35歳の時、「別家」を許されます。「別家」とは「のれん分け」のことで、奉公人がのれん分けを許されることを指します。(親族ののれん分けは、分家)
美具久留御魂神社からの二上山 日の出 2013.4.5.6:00
「太陽の道」にほど近い、二上山と美具久留御魂神社は、年に2回、太陽-二上山-鳥居-下拝殿が一直線状に並びます。
「太陽の道」=私の富田林百景+ 「 太陽の道 美具久留御魂神社 」2013.12.17.
その日は毎年、4月5日~7日と9月5日~7日ころです。
ところが、本家の嘉右衛門家にいろんな不幸が重なり、主人不在で、「欠所」となってしまいます。(欠所→主人が不在等の理由で、土地・財産を幕府・領主に没収されること。)この時、甚兵衛50歳。きっと、波瀾万丈の大変な時期であったとおもわれます。人生、たいがいだれでも一度はこういう時期があるのかもしれません。この時期あたりから、甚兵衛は思うことがあってか、新田開発に関心を持ち、苦難を克服しながら、新田開発をしていくことになります。
美具久留御魂神社の水盆
下拝殿右側に元禄六年(1693)のどっしりした水盆があります。甚兵衛が大阪淡路町の両替商に奉公に出てから、2年後に作られたことになります。すでに320年以上が経過しています。
ごらんのとおり、水盆の上部右寄りに、ポコンとした丸いへこみがありますが、これは盃状穴(はいじょうけつ)と言い、後で人為的に作られたものです。神社に参拝された時に確認してください。よく見ると、水盆の上部にそこらじゅう大小、浅深のいくつもの穴が開いているのがわかります。これらは、河内・泉州に多いのですが、神社やお寺の灯篭や水盆、またはそれに関係する石造物にそれが建てられたあと、民衆が人為的に開けたものです。江戸中期、後期の安産信仰や授かりものすべてを対象とした民間信仰かと思われます。
両手を合わせて、お祈りした手を、そのまま拡げて清水を受けるようにしてみてください。この形が盃状穴です。お水やお米を受ける、子供を授かる、この格好ですね。
江戸時代に若い既婚の女性が、だれにも見られないように、願いがかなうように、意思を通して石を穿(うが)った(下線の部分はシャレですのでよろしく)らしいのですが、誰も見た人がいません。なるほど、人に見られてはご利益(りやく)がなくなるとういうことですので、うなずけます。
ひょとして、甚兵衛さんなら真実をしっているかもしれません。現代の謎です。お近くの神社やお寺に行ってみてください。きっとありますよ...
新田開発事業を始めるきっかけとなったのは、甚兵衛が商用で堺への往復の道すがら、霞松原からみえる遠浅の海が新田開発に適していると見抜いたのがはじまりと思われます。
稲の花 2013.8.28.6:12
甚兵衛が初めて新田開発に携わったのは享保十三年(1728)に、開発途中の北島新田を買い取った時でありました。しかし当時、新田開発事業は資金や経営力が必要で、完成したとしても、洪水や高潮で大損害を被る、リスクの高い事業でした。
喜志の宮さん(富田林市喜志 宮地区)の田んぼ 2012.9.12.15:14
私のパソコンは「きしのみやさん(喜志の宮さん)」と打とうとすると、「喜志飲み屋さん」と変換する。
途中、資金難などで手放したり、買い戻したりと、紆余曲折がありましたが、少しずつ開発地を増やしていきました。
【美具久留御魂神社】大阪府富田林市宮町3丁目
式内社 地元の方は喜志の宮さんと愛称を込めて呼んでいます。南河内郡千早赤坂村水分の建水分神社を上水分社と呼ぶに対し、下水分社(しもすいぶんのやしろ)とも呼んでいます。
歴史は古く、社伝によれば紀元前88年、崇神天皇の用命で創建されたと言われる由緒ある神社。水との関係が深く、江戸時代は「水分宮(みくまりぐう)」と呼ばれていたようです。地元の人が朝日が昇る前から、また夜遅くまで、よくお参りに来られていて、粟ケ池、深溝井路、喜志惣村形態、だんじり祭などと溶け込んで、一体感があります。
本殿の背後の山は、昔から神奈備山と呼ばれ、山そのものが御神体となっています。鎌倉時代末、鎌倉方が赤坂城を攻めたとき、西条城(喜志)と共に焼き払われたが、間もなく再建され、天正の頃には十七坊を有していたといいます。
戦国期の書状には、「下水分神境」や「下水分寺内」と書かれ、織田信長配下の柴田勝家らによる9通のの「禁制」が残っています。
天正十三年(1585)豊臣秀吉の根来攻めの兵火を浴び、再び灰燼と帰したといいます。以後数十年間は復興されませんでしたが、万治元年(1658)から社殿の復興がはじまり、同三年にはほぼ元通りの姿を取り戻したようです。
【高砂神社】 大阪市住之江区北島三丁目14-12
甚兵衛が北島新田開発の際に、元文二年(1737)喜志村 美具久留御魂神社の水分神を勧請(かんじょう)し、高砂神社としました。 謡曲『高砂』の「・・・はや住之江に着きにけり...」に因み、高砂神社と名付けられました。勧請の時の神職は松原大蔵。喜志村 美具久留御魂神社の神職の方と思われます。天保六年(1835)火災で社殿を消失、四年後再建されました。この時、祭神は水分神・人丸大神・住吉大社の三柱。水にまつわるおみくじがあります。
その間、元文二年(1737)ふるさと喜志村櫻井の産土神である美具久留御魂(みぐくるみたま)神社の水分神を勧請(かんじょう)し、高砂神社を建立しました。
【高崎神社】大阪市住之江区南加賀屋四丁目15-3
宝暦五年(1755)甚兵衛は、喜志村 美具久留御魂神社の水分神を勧請(かんじょう)し、高崎神社としました。創建時は、大和川河口に祭られ、天保八年(1837)現在の地に移築して同時に天照大神・柿本人麻呂を合祀したとのことです。境内には、「力石」がいくつもあり、また「櫻井民次郎」の銘の石碑が見えます。勧請時の神職は松原氏で、当時、松原氏は富田林市喜志町(宮地区)の美具久留御魂神社の神職の方と思われます。。
北島新田の開発めどがついたのは、延享元年(1744)、その翌年(甚兵衛66歳)から、今度は加賀屋新田(南)(当時は、見立て新田とよぶ)の開発に着手、ここでも美具久留御魂神社の水分神を大和川河口に(現在の場所とは異なる)勧請し、宝暦五年(1755)、高崎神社としています。(天保八年1837現在地に移転)両神社は現在も、かつては茅渟の海であった甚兵衛の干拓地に鎮座しています。
2012.9.12. 16:22 富田林市南旭ヶ丘町 ため池のアオサギ
しかしながら、いつも人生は順風ばかりではありません。時には、思いもよらぬことが起きます。甚兵衛のもう一つの苦難は、両替商を任せていた婿養子が贅沢に流れ、借財で経営が傾き始めました。甚兵衛は延享四年(1747)に最終的に両替商をあきらめ、新田開発一本に絞ります。
【加賀屋新田会所跡(加賀屋緑地)】 住之江区南加賀屋四丁目8
宝暦四年(1754)に初代加賀屋甚兵衛が新田開発の管理事務所と居宅を兼ねて設けました。小堀遠州流の築山林泉回遊式庭園があり、「愉園」と名づけられ大阪名園の一つになっています。
平成13年(2001)には、大阪市有形文化財・史跡に指定されています。
そして、この地に屋敷を建設(宝暦四年・1754・甚兵衛75歳)、翌年加賀屋新田会所とします。人生の最後を自分が開発したこの地で終わりたいという思いがあったのでしょう。宝暦五年(1755)は記念すべき年。高崎神社・加賀屋新田会所成立、そして加賀屋新田(南)完成。そして甚兵衛は、宝暦七年(1757)次の養子の利兵衛に家督を譲り、翌年剃髪し(円信となのる)、会所の隅に隠居します。
その数年後、83歳で天に召される...
富田林市喜志(桜井地区)界隈 明尊寺の前の通り
一部古くからの伝統的な民家が残っています。
そして幕府よりその功績をたたえられ、苗字帯刀を許され、櫻井姓となります。この時、甚兵衛が「櫻井」姓を名乗ったのは、生まれ故郷の富田林市の喜志村櫻井に対する思いが強かったからに違いありません。鮎や鮭が自分のふるさとの川を忘れず帰るように、甚兵衛もきっとその思いが強かったのでしょう。今までの苦難を耐えてきた過去を振り返りながら...
大阪市住之江区南加賀屋四丁目 大和川堤防(画面をクリックすると大きくなります)
大和川の阪堺大橋からは大和川の向こうにちょうど二上山がみえる。250年前に甚兵衛もきっと見ていたこの景色、故郷の思いは、それは高崎・高砂神社を歓請したこと、櫻井姓を名乗った事でもわかります。雄大な景色ですが、実家の前の井路がここまで続いていることを、感じていたに違いありません。
「遠くを見渡せば、ランドマーク 二上山が迎えてくれる。この川(大和川)は、故郷 櫻井につがっている。私の故郷の家の前の井路に桜花を散らせば、私の第二の故郷にその便りが届く。」
(画面をクリックすると大きくなります)
初代甚兵衛が新田を開発したころは、洪水・高潮・資金難・両替商の閉鎖など、苦難の嵐でありました。二代目養子の利兵衛から、三代目・四代目甚兵衛、四代目の分家、西櫻井家祖 利兵衛に時代になると次第に開発面積も拡大し、新田経営も安定してきました。
加賀屋甚兵衛の墓 大阪市住之江区新北島二丁目1
南加賀屋霊園の真ん中あたりには、櫻井家一族のお墓がある。
・初代甚兵衛(円信)宝暦十二年(1762)、83歳
・三代目甚兵衛(永信)天保十五年(1844)、73歳
・四代目甚兵衛(淳信)、明治12年(1879)
・五代目甚兵衛(正信)、明治16年(1883)
・六代目甚兵衛(西信)、明治28年(1895)
・西櫻井家 利兵衛(了信)、明治16年(1883)
初代甚兵衛の墓はなぜか、小さい。
新北島1丁目の「南加賀屋霊園」に櫻井家の主たちが寄り添って眠っています。かつては茅渟の海であったこの地に立てば初代甚兵衛のふるさとの思いと苦労が思い起こされます。
【桜井の井戸】富田林市桜井町ニ丁目 甚兵衛のふるさとの名所
江戸後期に刊行された「河内名所図会」(享和元年(1801)刊 秋里籬島著・丹羽桃蹊画)に記載されている喜志桜井の井戸。 今は水が濁り、ザリガニが遊んでいますが、この当時は、水が冷たく甘味であったために、「お茶」の水にと、遠方からも汲みに来たそうです。 弘法大師の井戸の伝承や、聖徳太子が馬に乗ってここを通った時に、馬が水をほしがり、太子が鞭で地面をたたくと、水が湧きだしたという伝承があります。
櫻井のだんじり 宮入りの帰り道。
美具久留御魂神社の秋祭りは、泉州・南河内では最も遅い10月第3週の日曜日にあり、、各町十数台の石川型だんじりが、神前で「仁輪加(俄、にわか芝居)」を、奉納します。それで、「櫻井」の俄(にわか)のメンバーのみなさんははちょんまげの格好をしています。
中央公民館 喜志分館講座「南河内再発見講座~喜志の歴史探訪~」の 「第7回 加賀屋甚兵衛の足跡 歴史散歩(2013.3.6.)」にて、館外学習をした時の行程地図です。
*この内容は中央公民館 喜志分館講座「南河内再発見講座~喜志の歴史探訪~」の 「第7回 加賀屋甚兵衛の足跡 歴史散歩(2013.3.6.)」においてお話した内容を、2015.5.27.富田林中央公民館講座「富田林百景+」館外学習「♪ 喜志地区 東部をめぐる ♪」にて、再度紹介したものです。
なお、写真および図版は、すべてオリジナルのものです。
参考文献:・「敷津浦の歴史」 大阪市立敷津浦小学校 同PTA 1959
・「加賀屋甚兵衛物語」 八木滋 大阪人 2003 10月号より
・加賀屋新田会所跡 案内 住之江区役所
・「すみのえ探索記」 広報誌「さざんか」より 住之江区役所
2015.5月31日 (HN:アブラコウモリH)
ご指摘の通り、住之江区南加賀屋4-8(四丁目8)の誤りでした。ポイント的には四丁目8番地7号(四丁目8-7)になるようです。
ブログは四丁目8に訂正しました。
今後ともよろしくお願いいたします。
いつも興味深く読ませた頂いています。上記の件について、
住之江区南加賀屋4-8地内と思われますが、如何でしょうか?
ブログの資料が見にくかったので、拡大できるようにいたしました。