〈リバイバル・アーカイブス〉2024.1.15~1.29
原本:2018年5月24日
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2018年5月1日 13:30 須賀神宮寺(富田林市須賀二丁目4)
現在は須賀の集会所になっていますが、元来融通念仏宗のお寺でした。
境内には明和二年(1765)、富田林では3番目に古い「太神宮夜燈」、享保九年銘の地蔵菩薩像(写真左)、同じく享保九年の石灯籠があります。
さらに本堂右手には、西国三十三度供養塔が2基、五輪塔などがありました。
説明中の玉城氏に真剣に耳を傾ける講座メンバー。
西国三十三度供養塔は、1基は安永四年(1775)の宝篋印塔で「伝来五人行者」とあるので、富田林 浄谷寺の富田林組か嬉組の行者さんの可能性があります。もう一基は石柱型で明治四十年(1907)の銘があります。「花山院伝来四人行者」とありますので、これは太子町葉室 仏眼寺の葉室組の行者さんのものと解ります。
数年前に神宮寺より、須賀墓地の無縁塚に移された墓碑 (参考 ここは巡検しておりません。)
須賀墓地は明治42年(1909)に滝谷駅の西側に移転されました。古いところでは元禄二年(1689)の砂岩製一石五輪塔もあります。
安永三年(1774)、 安永四年(1775)の銘が見える墓碑がありました。
たぶん相次いで亡くなられた御夫婦お二人の墓碑ではないかと思われます。天国でも仲睦まじくとの思いを込めて縁者が作られたのでしょう。
かなり古い扁額が残っています。「戊申(つちのえさる)☐ 神宮寺 分紫大☐書」と彫られています。
「戊申(つちのえさる・ぼしん)☐」と見えます。
須賀(錦郡新田)の新田開発17世紀末からに隣村の錦郡(錦織)の村衆によって開かれたことから考えて、この「戊申」は享保十三年(1728)の可能性が高いと思われます。(その60年前は寛文八年(1668)、享保の後なら天明八年(1788))
地元町会の御尽力でご本尊の阿弥陀さまを拝観させていただきました。
境内の灯籠には享保九年(1724)の銘が見えます。
須賀(錦郡新田)の新田開発が行われ、神宮寺が建設された時期に呼応しているのかも知れません。
須賀のだんじり小屋にて
須賀のだんじり 10年前に新調しました。
岸和田の工務店で締め直しの調整終わって帰って来たばかりのとのことでした。彫刻がすごい。
「願力石」とよばれています。 力石としては大きすぎますし、賽の神にしてはあまり丸くなく材質も砂岩でなくて花崗岩のようです。
解説文には「大 七斗五目 小 五斗五目」と書かれています。
花崗岩の比重を2.5gとすると、1斗=約18リットルから考えて、
2.5(g)×18000(cm3)×7.5(斗)=337500(g)=337.5(kg)となり、村衆が力くらべをした力石としては重すぎますよね。
「須賀大明神」
須賀台の上の高台にあります。元の須賀神社の鳥居(須賀台開発時に撤去)には、元禄十四年(1701)と彫られていたそうです。
明治四十四年(1911)に錦郡新田から須賀という地名に改称される由来となったようです。
*須賀 神宮寺のご案内につきましては、地元町会の谷口氏、松永氏に大変お世話になりました。ありがとうございます。
須賀台の高台から錦織公園 やんちゃの里からの入口から入り、河内の里内のつつじの丘へ
錦織公園 24時間型の公園なのでいつでも入ることができ、しかも入口がたくさんあるので助かります。
広すぎて(甲子園の16倍)、迷うのが難点です。
実は訪問した5月1日はもうつつじが散っていました。この写真はあらかじめ4月20日に写したものです。
今年はつつじも1週間くらいは早かったようです。
錦織公園を抜けて錦織側へ。錦織公園のある羽曳野丘陵をはさんで、天野川・西除川水系から石川谷へ横断します。
この地蔵さんではなく薬師さんは、大阪大谷大学のキャンパスの中にある耳薬師さんです。
お耳の病なら何でも効くというごりやくがあります。こういう石造の薬師さんは珍しいのではないでしょうか。
(大学のキャンパスの中に昔からありますので、入るときに守衛さんにお声を掛けてからお入りください。)
なお資料にある大阪大谷大学博物館は4時までの開館であったので、行くことができませんでした。残念。
聖音寺 錦織南一丁目21
享和二年(1802)の錦郡村明細帳によれば、宇治黄檗山紫雲院末寺とありますが、開基は不明です。明治七年(1874)廃寺になりました。
境内には金毘羅さん、稲荷さん、地蔵尊、牛滝さんや「太神宮」灯籠、「金毘羅大権現」灯籠、「秋葉大権現」灯籠などがあり、そのいくつかは他の場所にあったものを移設してきたものだそうです。
聖音寺の地蔵祠の中の一地蔵尊 祠が北を向いていますので「北向き地蔵」と地元の方は呼んでいます。祠の中には新旧3体のお地蔵さん。
いちばん左の地蔵さん、なにか素朴な地蔵さんで、いいですね。てっぺんがとんがっていますがなにか意味があるのかな?
境内の人丸塚、牛滝さん、稲荷さん、「秋葉大権現」の灯籠、金毘羅大権現祠(左より)
特に人丸塚は形がユニークでいいですね。
自然石を利用した碑で「柿本人丸(人麻呂ではない)」の銘が入っています。
石がかなり風化していてよくわからないですが、次のように彫られているように見えます。
『柿本人丸
夜もすがら あかしがてらにたくものは
錦織山の 妻木なりけり
卯二月十日建之』
(年号は読み取れないです。)
もともと、ここから30m北北東の藪の中にあったものが、住宅建設に伴ってここに据えられたそうです。
誰が何のために建てたのかとよくわからないですが、存在感は充分ありますね。
存在理由がよくわからないのに、存在感が充分あるのはおもしろいですね。
JR宇都宮駅の餃子像 人丸塚とすこし似てませんか?
大和棟と茅葺き入母屋屋根
元狭山藩北条氏の庄屋さん宅です。
超ロングな長屋門 横格子窓が印象的。
旧家の屋根に「狭山藩北条氏」の三ツ鱗の紋
江戸期に錦郡(錦織)村は狭山北条氏と旗本甲斐庄氏の分国支配(相給)を受け、幕末のその石高は狭山北条氏358.5石、甲斐庄氏1033.1石でありました。
大和棟と土壁の民家
大峯山関係の記念碑とおもわれます。彫られている像は役行者。
和泉砂岩でできており、経年変化により銘の部分が剥がれて読めなくなっています。
これも大峯山三十三度満願塔 万延元年(1860)に造られました。道標も兼ねてます。
神南邊(大道心隆光)の道標 錦織中一丁目14
富田林では最大の道標
錦織町内の東高野街道にあり、滝谷不動に行く道の交差点の角に立っています。
指示する方向がどうゆうわけか、時計と逆向きに90度ずれています。
現在は
南向き:堺 発起 神南邊
施主 何某
東向き:すぐ 満き尾(槙尾)山
西向き:すぐ 葛ゐ寺
北向き:右 瀧谷山江(へ) 十丁 と読めます。
この道標には年号が入っていませんが、大阪・奈良中心に80基近く現存する神南邊道標は文政二年(1819)から天保11年(1832)の間に造られています。さらに道心と入っているのは天保三年(1832)以降なので、この道標は文政二年(1819)から天保二年(1831)の間に造られたことになります。
錦織中にある中薬師(旧安楽寺跡)と若宮地蔵(安産地蔵)(左)
この中薬師の鬼門(東北角)にこのように丸石が集められています。
これなんでしょうか?井戸の水切りとしては大きすぎます。実はこれは「賽の神」で境内の東北角を守護する意味か、この地が昔の錦織の町の入り口に当たり、その入り口の守護(厄を町内に入れない)という意味があるかと思われます。
無逢塔(お坊さんの墓)があるのは元お寺だからと思われます。
今回時間切れで行けなかった錦織地区の南部にある泥掛け地蔵(左)と脳天地蔵
二尊それぞれの祀られています。
ここも行けなかった旧国道170号線の道路沿い、近鉄電車の線路脇に延命地蔵さんがおられます。
最後に錦織南二丁目10の錦織住宅内に移設された錦織一里塚前地蔵(真ん中)。
東高野街道は江戸時代に重要な街道であったので、江戸幕府より一里塚が作られました。
今も八尾市垣内と錦織には一里塚が現存します。一対で残っているのは錦織一里塚だけです(府指定史跡)。たぶんその脇にあったと思われる地蔵さんのようです。
*東高野街道一里塚は一里(約4km)ごとに一里塚が整備されていました。正保(しょうほう)元年(1644)の『河内国絵図(かわちのくにえず)』には、東高野街道に11ヶ所の一里塚が描かれていますが、現在は八尾市の垣内の一里塚と富田林市の錦織[府指定史跡]にだけ残っています。「一里松」とか「一里山」とかの地名として残っていることも多く、とんだばやし寺内町(富田林町)には自治会名で「一里山町会」(寺内町の東北の街道出口に江戸期に一里塚(一里山)があり、高札が掲げられていた。)があります。ここから次の錦織一里塚までちょうど一里。
参考文献:「つむぐ」創刊号 錦織あけぼの会 2012.8.
「つむぐ」第二号 錦織地区および駅前周辺まちづくり協議会・歴史と文化部会編 2014.10.
「とんだばやし灯籠めぐり~町かどの文化財を訪ねて~」富田林中央公民館市民大学講座『冨田林百景+』の仲間たち 2018.3.
館外学習日:2018年5月1日
写真撮影:2018年4月20日、5月1日、5月5日
2018年5月24日 ( HN:アブラコウモリH )
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