アンティークマン

 裸にて生まれてきたに何不足。

献血しない後ろめたさ

2015年08月21日 | Weblog
 学生時代は、「黄色い血」の時代でした。貧乏学生が現金を得るために、「売血」していました。貧乏だから、ろくに食事をしていない。それなのに、体内で売るだけの血が造られているんだなあと感心したものでした。もちろん私は、自分の血を売るなんてことはしませんでした。毎日のように血を売っていた人は、ふらふらとアパートに帰って来てしばらく寝ていました。私は時々、「死んではいないだろうなあ」と、部屋に確認に行ったものでした。その人は、起きると勉強して、インスタントラーメンを食べて、血を売りに行って、しばらく死んだように寝て…。

 売血する人は…麻薬のようなもので、売血を繰り返す。当然、健康を害する。また、売血常習者の血は、「薄い」のだそうで、輸血しても効果が少ないという。肝炎?当然蔓延していたことでしょう。そんなわけで、「売血→献血」となったわけ。
 「輸血用血液を献血によって確保する体制を目指す」と、政府が閣議決定したのは昭和39年8月21日。つまり、50年前の今日。で、「献血の日」となっている。

 輸血を受ける可能性は私にもあるので、献血したいのですが…献血をしたことがないのです。理由ですか?イギリスで、「狂牛病」が流行ったときにイギリスに滞在していた関係で、「献血してはいけない人」だったからです。私の血を輸血して、「狂牛病」になる人が出たら大変ですからね。幸い私は狂牛病は発病しませんでした。だったら、これからでも遅くないから献血しろって?…そ、それが、難しい病気を患ってしまいまして…(大量の薬を服用しているので献血できない)。早い話が、近年の若者の献血離れとは違うってことです。

 献血をしないことの「言い訳」をするなって?そうなんですよねぇー…「献血の日」が、苦手な日なのです。言い訳したいのです。献血の意義は、黄色い血の時代を知っているだけに十分わかっています。助け合いの精神は真っ先に発揮したいタイプ(早い話が目立ちたがり)…しかし、献血できない。感じなくてもよいであろう「負い目」を、今日一日感じ続けるのです。